【第 5 回】
岐阜県 高山市 クーベルチ フランス菓子 リヨン
飛騨高山でよみがえる、50年前のお菓子の記憶。 (1/2)
聞き手 小林みちたか
写真 梅原渉

コクのあるチョコとクルミの相性が抜群の『クーベルチ』。創業から人気No.1の座を守り続けている。
美しき日本の原風景、合掌造り集落の世界遺産・白川郷。その玄関口となる岐阜県の飛騨高山もまた、江戸時代の古い街並みを残す観光名所として世界中から旅人がやってくる。
JR高山駅から1キロほど。ホテルの建ち並ぶ県道を抜け、苔川(すのりがわ)に向かって歩くと切り絵のようなシルエットの女の子の看板が見えてくる。

看板に描かれるケーキを持つ女の子。お菓子の好きな子供たちへの想いが込められている。
『フランス菓子 リヨン』
地元・高山生まれのパティシエ・山田行広さんが営む洋菓子店だ。
創業は1987年。今年で37年目を迎える。
『リヨン』の焼き菓子の売上No.1は、37年間ずっと変わらない『クーベルチ』。
フランス語でチョコレートを意味する「クーベルチュール」を語源とする製菓用チョコレートから名づけられている。
手のひらサイズの四角いチョコレートのスポンジの上に、少し硬めのチョコレートが屋根のようにのっている。あいだには、あんずやみかんのミックスジャム。
食べ応えのあるスポンジに砕いたクルミがランダムに混ざり合い、コクのあるチョコとの相性も最高。
パッケージはいまどき珍しいレトロな銀紙で、1個1個手作業で包んでいく。そしてアーチ型のロゴシールをポンっと貼る。思わず両手で包み込んでしまいたくなるような可愛さ。
このレシピもパッケージも、なんと半世紀近く変わっていない。
発祥はパティシエの山田さんが、若手時代に修行した神奈川の洋菓子店。
「1日で300万円くらい売り上げていた」という焼き菓子の名作なのだ。
ただ、発祥のお店はすでになくなり、レシピを受け継いだ弟子たちも高齢化や後継者不足などもあって徐々に減少。いまやこの名作を味わえるのは、全国で3店舗のみ。
東京以外では、ここ岐阜県高山市の『リヨン』だけである。

『リヨン』の創業者・山田行広さん。2人のお子さんは別の世界に進んでいるため跡継ぎはいない。
厳しくも夢のような修行時代
『リヨン』の店主・山田行広さんは、昭和33年(1958年)にここ高山で生まれた。
中学生の頃は医者になりたいと思っていたが、「勉強の方がついていかず(笑)」、若い頃は将来どうしようかと悩んでいたという。
1970年代当時、農業分野でバイオテクノロジーという言葉が盛んに使われるようになっていたこともあり、高校卒業後は農業者を養成する県の農業大学校に入った。ただ家業が農家というわけではない。
山田さんの曽祖父は、知人と共同で和菓子を扱う会社を興した。以後、祖父、父と和菓子作りに携わってきたが、時代とともに和菓子業界は下火に。将来に悩む山田さんには誰も勧めなかった。
農業大学校を卒業した山田さんは、地元の肥料関係の企業に就職する。しかし「ちょっと自分の思いとは違っていて」半年で退社。
「職業を変えるなら、早い方がいい」
この決断が山田さんの人生の大きな転機となった。
父の知り合いが、10年くらい前に神奈川の川崎市で洋菓子店を開いていた。
そこに相談すると「人が足りないからうちで修行して」と請われ、山田さんは川崎の洋菓子店に住み込みで働くことに。

寝る間もないほど忙しかった修行時代。作ったスポンジを師匠から「今日はよかったぞ」とほめられる時が1番嬉しかったという。
当時は製菓の専門学校に行くよりも、丁稚のようにお店で直接修行する人の方が多かったそうだ。
経験ゼロの素人で飛び込んだ世界。最初の頃は鉄板を拭いたり、洗い物をやったりの下積み。それから少しずつ仕込みを手伝うようになっていく。
「卵を立てて、焼いていくと生地ができていく。それが新鮮で。面白かったですね」
修行をはじめて半年もすると、「これを一生の仕事にしよう」と思ったという。
ただ、当然、そう簡単な世界ではない。
自分ではうまく仕込みができたと思っても、先輩たちがチェックすると「まだまだ」となかなか合格はもらえない。
「レシピ通りに材料を混ぜているんですが、やっぱり実際は手作業なので微妙な違いが難しいんですよね」
バターがしっかり混ざっていなかったり、粉が玉になってしまっていたり。レシピだけではわからない領域。
「その感覚を自分で覚えとけよって言われて。お店が終わってから練習するようになりましたね」
幸い寝床はお店の上。夜中まででも練習できる環境だった。
「同い年の大阪の子がいましてね。ケーキ屋の息子で。あらゆることの覚えが早いんです。でも僕は全然遅くて悔しくてね。同い年だし。だから必死になって練習して。そのおかげで、少しずつできるようになっていきました」
やがて生地作りの仕込みからお花や動物の細工、人形作り、デコレーションも任せてもらえるようになっていった。
「日本の景気もよくて、甘いものを出せば何でも売れる夢のような時代でした。忙しくてエラかった(大変だった)ですけど、楽しかったですね」

夫婦二人三脚で30年以上歩んできた。店主の山田さんがわからないことは妻の千鶴子さんが「ぜんぶ知っている」とか。
『リヨン』創業
3年、4年と修行を積み、山田さんは一人前のパティシエとなった。ただ独立までは8年かかった。
「人が育たなかったんです。若い人が入ってきても、長続きしない。当時は休みが少ない。労働時間も長い。やっぱりみんな遊びたい盛り。遊んでいる同世代が羨ましくなっちゃうんでしょうね」
せっかく仕事を教えても、ひと月、ふた月で辞めてしまう。中には3日、4日で逃げていく人もいた。そうなるとお店に迷惑はかけられないから、自分が抜けるわけにもいかない。結果、なかなか辞められない。
「大変なりにも楽しいと感じていた自分は、この仕事に向いていたんだと思いますね。営業なんかは苦手ですけど、やっぱりコツコツとモノづくりをしていくのが好き。職人的な気質があったのかもしれないです」
結局、何十人と辞めていく若者たちを見送り、ようやく独立できたのは28歳の時だった。
そして、地元の高山に戻り、古くなっていた生家を店舗兼住居に建て替えた。
「準備期間の8ヶ月間くらいは、もう早くやりたいってウズウズしていました」
念願のお店の名は、ずっと勉強してきたフランス菓子の本場の地名から『リヨン』にした。
「お客さんに覚えてもらいやすい名前を選びました。看板の女の子の絵は、子供たちにたくさん食べてもらいたいなって。商品も基本は修行時代のものばかりでした。違うことはできないですから」
修行先で学んだ『クーベルチ』も、もちろんオープンから店頭に並んだ。

『クーベールチ』のパッケージは妻の千鶴子さんの担当。その手際のよさに「こればかりは敵いません」と店主の山田さんも舌を巻く。
当時の高山には、すでに10年近くやっている洋菓子店が2店舗あった。ただ『リヨン』の味は、新しモノ好きの地元の人たちの舌を掴み、「オープンから1、 2年はかなり忙しかった」という。
現在、山田さんと一緒にお店を切り盛りする妻の千鶴子さんも、『リヨン』の味に魅せられた1人だった。
「仕事帰りによくケーキ屋さんに行っていて。たまたま車で『リヨン』の前を通って、こんなところにケーキ屋さんできたんだって気づいたんです」
後日、ケーキを買って食べてみると他のお店より格段に味がよかった。
「私は生クリームの臭みがちょっと苦手なんですが、ここのケーキは全然臭みがなくて。それから通うようになったんです」
やがて交際に発展。妻の千鶴子さんは、初めて厨房に入った時のことをよく覚えている。
「ボールからクリームを一筋も残さずにすくい上げてて。もう本当にキレイで。すごい!これが本物の職人なんだって!驚きました」
そして結婚。パティシエの夫とケーキ好きの妻。なんとも素敵な組み合わせ。幸せな未来に向かって歩み始めた2人の前に、次々とライバル店がやってきた。