【第 8 回】
福島県 白河市 カルソー 御菓子司 えんどう
今なら不可能? 名前もレシピも謎だらけの魅惑のケーキ (1/2)
聞き手 小林みちたか
写真 梅原渉

3センチ×4センチ×6.5センチ。見た目は小さなお菓子だが、中にはたくさんの謎が詰まっている。
新幹線の停車駅で唯一村にある新白河駅。その東口から車で5分ほど。国道のぶつかり合う交差点に来年創業100年を迎える菓子屋がある。
『御菓子司 えんどう』
お店のサイトをのぞくと、人間は甘さの感覚を自然から学んだと唱え、お菓子の原点を追い求めて合成甘味料を一切使用しないと掲げる。
さらに、自然の恵みの宝庫である地元福島の素材はもちろん、自然の旨みを引き立て、季節感を大切にした菓子づくりにこだわるとうたう。
看板商品は、ふんわり生地に塩味のきいたバタークリームと角切りチーズがたっぷり入ったチーズブッセ「白河の月」。
他にも、大粒で極軟の栗をひとつずつ丸ごと入れた福を呼ぶ開運銘菓「白河だるま」。
素朴な風味の芋飴とさわやかなりんごの果肉をもちもちとした食感の生地でつつんだ新食感の焼き菓子「ぽてっぷる」。
などなど、オリジナリティあふれる商品群は、和菓子、洋菓子、ケーキと幅広い。
そんな中、サイトのどこにも載っていないのに、いきなり「1500個!」と大量注文を受けることもある謎の洋菓子がある。
かの総合生活雑誌『暮らしの手帖』では、「ホワイトチョコレートの魔性のケーキ」と紹介されたという。
欧風銘菓「カルソー」
レトロな金色の包装も、レシピも、名前もずっとおなじ。でも、その由来は謎、謎、謎。
60年以上前といわれる、その誕生もまた謎につつまれているという。

『えんどう』の前身は、JR白河駅から少し離れた桜町で「砂糖や乾物を扱う小さな商店」だったそう。その店から菓子屋を起こしたのが始まりという。
どんな小さな口の人にも食べてもらいたい
『えんどう』の始まりは1926年。父親が始めた菓子屋を息子の遠藤政ノ助さんが法人化し、『御菓子司 えんどう』を創業した。
『えんどう』の創業菓子といえば、「一口まんぢう」だ。
創業者の政ノ助さんは阿武隈川源流の豊かな原材料を基に、どんな小さな口元の人でも一口に食べられるかわいいお饅頭をつくった。
これがかなり売れたという。
そのヒットを受けて、店を白河駅前に移転。
今度は、駅のホームで木箱に入れたあんぱんを売りはじめた。
当時あんぱんといえば、パン屋さんが作っていた。
「ただパンは美味しくても、あんこは和菓子屋には敵わない。そこに目をつけたんでしょうね」
そう教えてくれたのは現店主で、創業者の政ノ助さんの孫にあたる遠藤誠一さん。
パンを平べったいおやきのようにした『えんどう』のあんぱんは、これまたよく売れたそうだ。
遠藤さんの記憶にあるだけでも周りに菓子屋は9店舗はあったそうだが、『えんどう』は一躍繁盛店となっていった。
そして創業者の政ノ助さんから、息子の遠藤卓男さんへと代は移っていく。

現店主の遠藤誠一さん。創業者は祖父だが、はじまりは曽祖父なので「4代目と名乗っています」
喫茶店時代
遠藤卓男さんは、8人兄姉の末っ子で次男。長男が継ぐことの多い家業だが、その長男は成績優秀で東京の名門大学に進学した。
「そんな優秀ならもうお菓子屋をやっている場合じゃないと。で、次男の親父が継ぐことになったみたいですね」と遠藤さんは笑う。
卓男さんは高校を卒業して、東京の製菓学校で学び、20歳から『えんどう』で働き出した。
やがて時代は高度経済成長に入り、店にはこれまでの和菓子に加えて、洋菓子も増えていった。

品の良さは日本一ともいわれる「白河だるま」。創業者の政ノ助さんの妻の実家は、代々「白河だるま」を作っている家系で、その縁からだるまにまつわるお菓子もある。
さらに、卓男さんは仕掛けていく。
菓子屋に喫茶店を併設したのだ。
ドリンクに、デザートは本職のパフェやプリン。くわえてナポリタンといった食事も出した。
「店の隣が銀行でお仕事関係の方から、若者の出会いの場にもなって。かなり繁盛していました。日本が1番いい時代でしたね」と父の時代を少しうらやましそうに語る遠藤さん。
ただ、『えんどう』の原点はやはりお菓子。ほどなく卓男さんは喫茶店を閉め、幅広いお菓子を扱う菓子屋へと店を改装した。
ところが、今度は白河駅周辺の区画整理の話が持ち上がる。店のリニューアルから10年ほどで移転を余儀なくされてしまった。なんとももったいない。
そして1994年に『えんどう』は現在の新白河駅近くに移ることになった。直前には創業者の政ノ助さんがこの世を去り、入れ替わるように息子である現店主の遠藤さんが店に入った。
事業の多角化、商品の拡大、店舗移転と、卓男さんは激動の時代を駆け抜けていった。

新白河駅は福島県西郷村にあり、新幹線の停車駅では唯一の村。ただホームの北側は白河市となる。東口には「奥の細道」で白河の関を越えた松尾芭蕉像があり、白河市は「みちのく(奥州、 現代の東北地方)の玄関口」としても知られている。
スポーツからお菓子への転身
曽祖父のお菓子屋時代から数えて4代目となる現店主の遠藤誠一さんは、卓男さんの長男。だが菓子屋を継ぐ気はなかったという。
というのも、スポーツ万能。それも半端ではないアスリートだった。
小学校では野球。中学ではバレーボール。高校では弓道。すべての競技で全国大会に出場しているのだ。
高校の弓道では東北チャンピオンから全国3位。そのまま仙台の大学に進み、大学でも全国3位になっている。
ここまで運動ができると、「スポーツに関係した仕事をしたい」と思うのは無理もない。
ただ、2歳違いの弟さんが、これまたスポーツ万能。遠藤さんを追いかけるように同じ高校で弓道を始めると、兄よりさらにいい成績を収め、兄より強豪の東京の名門大学へ進学。その大学で日本一になった。
「これなら弟の就職はきっといいだろうって。それで家業は「俺が継ぐか」という風になりましたね」
奇しくも父の卓男さん同様、兄弟の将来を優先し、家業を継ぐことを決意した。
父の卓男さんは、これほどスポーツに長けた息子たちを見て、ひょっとしたら店は自分の代で終わりと思っていたかもしれない。長男の遠藤さんが継いでくれて、さぞ嬉しかったことだろう。

父の卓男さんもスポーツ万能でテニスで県3位だったそうだ。他にも全国大会や甲子園に出場した親戚が何人もいて、スポーツ万能の血筋という。
「専門学校に入るのもなんなので、修行先を探して欲しい」と遠藤さんにお願いされた卓男さんは、一言「わかった」というだけだったが、張り切って探したそうだ。
その修行先は20店舗以上抱える岡山県の大きなお店だった。
学生時代は部活ばかりでお菓子作りの経験はほぼゼロの遠藤さん。入社後2ヶ月はひたすらカスタードクリームを炊き続けた。
「毎日300キロ。もう眠っていても作れるくらい」と笑う。
そのあとは、ひたすらワッフル、次はひたすらプリン、ひたすらチーズケーキといった具合に、少しずつお菓子作りを体に染み込ませていった。
やがて創業者の政ノ助さんが亡くなり、店も移転するから帰ってこいと父の卓男さんにいわれ、5年のつもりだった修行は工場のみの3年で終わった。

JR白河駅の北方約500mに本丸が位置する小峰城。