【第 4 回】
東京都 江東区 マロングラッセ モカドール洋菓子店
東京の下町で孤高の職人が目指す、誰も見たことのない菓子屋。 (1/2)
聞き手 小林みちたか
写真 梅原渉

「モカドール洋菓子店」の店主・三好勇さん。「私は次男だし、店を継ごうなんて思ってもいなかった」そうだ。
東京三大銀座の1つ「砂町銀座商店街」。東京の下町・江東区北砂を貫く全長670メートルの長い商店街には、約180の店舗がひしめき合っている。
毎月10日に開催される「ばか値市」となれば、活気あふれる掛け声が響き、満員電車のごとくお客さんで大混雑する。
そんな下町の商店街のちょうど真ん中あたり。チョコレート色の外壁、ピカピカに磨かれたショーウィンドーや鏡、そこに達筆な立て看板という少し不思議な佇まいのお店がある。

砂町銀座商店街の誕生は昭和7年。アクセスは東陽町駅からバスで12分、西大島駅からバスで約4分だ。
『ドイツ・フランス菓子専門店 モカドール洋菓子店』
店内に一歩足を踏み入れると、無数のケーキや焼き菓子が整然と美しく並んでいる。
そして数十号サイズの巨大な絵画や禅や人生訓が書かれた書の数々が、お菓子を圧倒するほどのインパクトを与えてくる。
「あれ?お菓子屋さんじゃ」と不安になるこちらを見透かすように、ご主人の三好勇さんが一言。
「本当の菓子屋ってのは、こういうのだから」
趣味の域を遥かに超えた絵画や書は、すべて三好さんの作という。

「絵がどんどん増えている」ため、店内にはお菓子より絵画の方が存在感のある一画も。
商品に目を移すと「非常に手間がかかります」という達筆なポップ。
高級菓子の『マロングラッセ』だ。
可愛らしい小さな丸いトートバッグのようなパッケージに「こんなの見たことない」と漏らせば、「だから作ったんです」と三好さん。
最新のオーディオにスピーカー、極楽鳥の剥製、フィギュアに置物、果ては江戸末期のさお秤といった骨董品まで。
玉手箱のような『モカドール洋菓子店』の創業は1970年。
以来、愚直にお菓子を作り続けることで、世界有数の競争都市・東京で半世紀以上も生き残ってきた。

シロップでツヤツヤにコーティングされたクリ。この工程までくるのに何日も費やしている。
創業から作り続けるマロングラッセ
マロングラッセは手間のかかる洋菓子だ。
皮を剥いたクリに型崩れしないよう糸をかけ、糖度を徐々にあげたシロップで何日も煮ていく。
「うちは25度から」という三好さん。少しずつ糖度を高めていき、最終盤は、高濃度で数分煮る。
そして100度を超えたシロップでコーディング。
ここで漬け込みすぎると、糸を外すときに身が崩れてしまう。
「なんでもそう。どこかで手を抜けば、すべて仕上がりに出る」という。
作るのに1週間はかかる。賞味期限は4週間ほど。
ツヤツヤのマロングラッセを小さな袋に詰めながら三好さんはいう。

可愛いパッケージに一つ一つ梱包された「モカドール」の「マロングラッセ」。ジュエリーのような佇まいだ。
「大手なんかだとこの最後の袋詰めを真空パックにしちゃう。すると半年は長持ちする。で、金の紙で包ん
で平べったくして。それだとしばらくして砂糖が蜜になっちゃう。それじゃクリの甘露煮。グラッセじゃない」
でも、日持ちする真空パックの方を喜ぶお客さんもいるかもしれない。
「そう。だから、差別化したかった。小さなカバンみたいにして、ちょっと中身が覗けるくらいの取っ手をつけて。全部見えない方が面白い」昔、アイドルのそんな写真集があった。
「こんなパッケージはないでしょ。じゃないと売れない。そもそも手間もかかるし、こんなにお金かけない」
差別化と徹底的。『モカドール洋菓子店』には、その2つの信念が流れている。

お菓子作りのキャリアは60年。それでも「上には上がいますから」と常に謙虚だ。
3年で体を壊すと言われた修行時代
『モカドール洋菓子店』の前身は、三好さんが3歳の頃、砂町地区で、父が創業した和菓子屋さんだ。
ただ、その父は三好さんが9歳の頃に亡くなってしまう。以後は「お袋が頑張っていた」という。
三好さんは次男。性格も内向的で、客商売には向いていないと思っていた。
高校3年生になっても特に将来の目標もなく、「先生にはだいぶ手こずらせた」そうだ。
結局、大手のレストランを紹介してもらい就職。
「要はサラリーマン。決まった時間に行って帰るだけ。配達に行ったり、地下の工場でプリンなんかを作ってた」
そんな三好さんの様子を実家の和菓子屋に出入りしていた業者さんが聞き、「そこじゃだめだよ。本人の覚悟があるなら、日本一厳しいとこを紹介してあげる」と声をかけてくれた。
「お袋から、お前どうする?って言われてね。それで布団ひと組で就職」
そして東京のとある洋菓子屋に住み込みで働くことになった。
そこは「3年働いたら体を壊す」と言われるほど厳しい職場だった。
三好さんは「大したことやってない」とうそぶくが、朝7時頃に叩き起こされ、夜中の12時頃まで働き、閉まる直前の銭湯に駆け込んで帰ってきてからまた仕事というほどハード。
「あの頃はみんなそう。住み込みだし自由時間なんてなかった」そうで、「経済的に恵まれていないとか、親がいないとか、そういう人が多かったね」という。
「番付の世界で、一つポジションが上がれば、下は虫ケラ同然の扱い。だからみんなライバルで切磋琢磨して頑張る。自分に向いているとか考える余裕もない。やるしかない。もう無我夢中」
職人の世界は個人競技。キラッと光る人と言うのは、やはり陰で努力しているものなんだと悟ったという。

若い頃は本や食べ歩きをして研究したが「意味がなかった」という。そんな簡単にわかる世界じゃないことを悟ったそうだ。
『モカドール洋菓子店』創業
三好さんがそんな職場で体を壊すことなく3年半ほど働き続けた頃のこと。
実家の和菓子屋が区画整理の煽りで移転しなければならなくなった。
店は相変わらず母が切り盛りしている。
そんな状況を知った修行先の社長さんから
「お袋さんも大変だろうから、お前、早く帰ってあげろ」と言われて、修行は終了。
そして移転先に『モカドール洋菓子店』を創業。それが1970年、三好さん、22歳の時。
「あの頃は、みんな甘いものに飢えていたから、シュークリーム、クッキー、ショートケーキにチョコレートケーキ、そのくらいでも商売になった」
三好さんは、当時の職人たちには当たり前だったタバコも賭け事もやらなかった。
そのかわり、ひたすら勉強。
お金が貯まったら、機械を買って、店を改造して、お菓子作りに注ぎ込んでいった。
「暴走気味で、商売に金をかけすぎちゃう。それを止めてくれていたのがお袋だったね。マロングラッセのパッケージだって、こんな下町の商店街で、そんな金かけたって仕方ないのにって、よく喧嘩もしたなあ」と懐古する。
「日本一厳しいなんて言われた修行先だが、今思えば、どこで修行したって同じ。最後は自分の力。
誰も教えてくれない。そういうことに早く気づけたのは、厳しい環境だったからかもしれない」
やがて大きな転機が訪れる。
三好さん45歳の頃。どこだって同じと言っていた修行先が作ってくれた縁だった。