【第 2 回】
群馬県 太田市 スバル最中 伊勢屋
こだわりのあんこが詰まった伝説の名車菓子。 (1/2)
聞き手 小林みちたか
写真 梅原渉

創業90年の「伊勢屋」の店舗は場所はそのままに2回の建て替えを経て、20年ほど前に現在の姿となっている。
日本中のスバリストたちが集まる和菓子屋
群馬県の太田駅北口から5分ほど。とある工場の門柱にはこう表記されている。
「スバル町1−1」
ここは自動車メーカー・スバルの本工場。「スバル発祥の地」といわれ、スバル町は2001年に成立した正式な地名だ。
スバルは日本最大規模の航空機メーカーだった中島飛行機をルーツに持ち、戦闘機(零戦)を作っていたことでも知られる。その特異な生い立ちもあり、職人魂あふれる独特な自動車メーカーとしてのブランドを確立している。
そんなスバルの熱狂的なファンは、いつしか「スバリスト」といわれるようになった。
他の自動車メーカーにはファンを一括りにするような呼び方がないことからも、スバルの個性とスバリストたちの愛情の深さがわかる。
スバリストたちは「スバル詣(もうで)」と称して、この本工場の前で愛車と写真を撮るという。
そして、もう1ヶ所。スバリストたちがこぞって立ち寄る場所がある。
本工場の正門の前に建つ、小さな和菓子屋『伊勢屋』
『伊勢屋』で人気車種のレガシィB4をかたどった「スバル最中」をいただく。それがスバリストたちにとって欠くことのできない「スバル詣」の作法となっているのだ。
「スバル最中」と聞いて、スバリストの情熱に便乗した企画モノだと思ったら大間違い。
その歴史は古い。「スバル最中」の発売はなんと今から60年以上前の1961年3月なのだ。
さらに『伊勢屋』の歴史は、もっと古い。
スバルの前身である中島飛行機がこの地に工場を構えた同じ年に、『伊勢屋』もまたこの地に誕生した。
3代にわたる和菓子職人の歩みは、今年90年目を迎える。

スバル車を忠実に再現した「スバル最中」の皮。モデルチェンジを重ね、現在はレガシィB4を模した3代目。
止まらない男・初代伊勢屋
岡田喜四郎さんは、明治44年(1911年)にお米農家の四男坊として生まれた。農家を継ぐのは長男。四男は栃木県の足利で和菓子屋を営んでいた伊勢屋に丁稚奉公に出された。
生来努力家だった喜四郎さんは、わずか2年で独立する。
当時も今も伊勢屋を名乗るお店は多いが、和菓子の伊勢屋には各市町村に1軒しか店を出してはいけないという不文律があったそうだ。
候補地を栃木県の佐野市と群馬県の太田市に絞る中、喜四郎さんの耳に、かの中島飛行機が太田市で工場を稼働させるという話が入ってきた。
「太田の方がお客さんがたくさん来るだろう」
そして中島飛行機の太田工場(現在のスバル本工場)の目の前に『伊勢屋』を創業した。
1934年。初代『伊勢屋』喜四郎さん23歳の時である。
創業当時の『伊勢屋』は、お団子や大福といった通称「朝生菓子」といわれる、作ったその日に食べる生菓子をメインに、お赤飯やいなり寿司、さらには食堂もやっていた。
中島飛行機から富士重工業へと社名を変えた工場にはまだ食堂がなく、昼はもちろん夜勤や残業向けの出前までやり、工員の人たちがよく利用していたという。
そんな折、富士重工業の健康保険組合から、創立10周年の祝賀会で渡すお土産の茶菓子を作ってくれないかという依頼を受ける。
初代の喜四郎さんは、最中はどうだろうかと考えた。
元々和菓子の中ではカビを防ぐ砂糖も多く、火入れも十分なので日持ちする。お土産には最適だ。それに金型さえ作れれば、形も自由ときている。

最初の「スバル最中」となった「スバル360」の金型。現在は360(サブロク)焼きに使用されている。
その頃、富士重工業から「スバル360」という軽自動車が発売されていた。通称「てんとう虫」と親しまれた丸っこいフォルムは、日本に「マイカー」という言葉を定着させた日本の自動車史で欠かすことのできない名車である。
そして、このスバル360を模した「スバル最中」が誕生した。
当時スバルの工場には、期間工として東北から繁忙期の終わった農家の人たちがたくさん出稼ぎに来ていた。長い休みに田舎へ帰る際には、「俺はこの車をつくっているんだぞ」と故郷に錦を飾るために、この「スバル最中」をたくさん買っていったという。
朝生菓子からいなり寿司や赤飯、昼や夜の食堂。夏場にはアイスキャンディやかき氷。『伊勢屋』は和菓子屋の枠を越えた存在として、「かなり繁盛していたようです」と笑うのは現在の『伊勢屋』の代表である3代目の岡田喜浩さんだ。

この地で生まれ育った3代目「伊勢屋」の岡田喜浩さんにとって、スバルは体の一部のような存在だという。
岡田さんの祖父である初代『伊勢屋』喜四郎さんは明治生まれの農家育ち。じっとしていたら怒られるような家で育ったから、「止まらない人だった」という。常にお客様のために、を考えて商売していたのだろう。
そんな初代の心意気がわかる教えがある。
「絶対に広告宣伝をしてはいけない。そんな予算があるなら材料に使え!」
自分が苦労人だったから、お金のない若い人の気持ちもよくわかる。美味しいものを安価で食べられるようにしたい。そんな思いからの言葉ではないかと3代目の岡田さんは推察する。
その言葉は、創業から90年たった今も受け継がれ、「いまや社訓のようになっている」という。

「スバル最中」にあんをつめる3代目の岡田さん。小学生の頃から店の手伝いをしていたという手際は丁寧そのもの。
2代目の決断
忙しくなる『伊勢屋』の勢いもあってか、初代喜四郎さんは地元の名士として市議会や県議会での仕事が増えていった。必然、店にもあまり顔を出せなくなる。となると、2代目に早く店を任せたい。
ただ、息子である2代目の岡田浩吉さんは、どうしても大学へ行きたかった。でも初代の喜四郎さんは頑として認めない。結局、大学の合格通知を隠してまで進学を諦めさせてしまったのだ。なんとも強引なやり方だが、結局、2代目は大学へは行かず、高崎のお菓子屋さんへ修行に出ることに。
そして、修行を2年で切り上げて、急いで伊勢屋に入った。
しばらくは初代が築いた和菓子屋+食堂というスタイルを続けたが、時代とともに太田の街は変わっていった。
そして『伊勢屋』も変化を迫られることになる。
『伊勢屋』とスバルのある北口の本町通りの商店街に対して、やや寂れていた南口に商店街ができることになったのだ。そこへ北口の商店街の人たちがこぞって支店を出した。
『伊勢屋』もすでに本店から数百メートル離れた場所に売店を出していたが、そこが貸店舗だったこともあり、その売店を閉め、あらたにできる南口の商店街に移転させることにした。
しかし、それから5年ほど経つと今度は南口の駅近くに大型の商業ビルができたのだ。駅からの利便性もよく、人の流れが変わってしまう。南口の商店街にあった店たちはその商業ビルへと移っていった。途端に南口の商店街は寂れてしまった。
ここで2代目が大きな決断する。
南口の支店を閉めて、駅前の商業ビルに入ることなく、営業を北口の本店へと集約。さらに食堂をやめて、お菓子だけに専念することを決めたのだ。
お菓子に専念したのには、いくつか理由がある。
まず、スバルの工場に社員食堂ができ、『伊勢屋』の食堂を利用する人が減っていた。くわえて食堂の調理を担っていた方も高齢になっていた。さらに店舗の建物が老朽化。ならばと2代目はスパッと食堂のない新しい店舗を建てたのだ。
ただ食堂を閉めるなら、代わりに売上を見込めるものが必要になる。そこで2代目が目をつけたのがブライダルだった。
これが当たった。
いわゆる引き出物として、お菓子やお赤飯などが喜ばれた。食堂分をカバーしてもあまりあるほどの売り上げになったという。
もちろん和菓子作りの方にも精を出した。
「スバル最中」は金型を変え、スバル360からスバル・レオーネへとモデルチェンジした。
新作も作った。
「スバル最中」は日持ちするとはいえ、賞味期限は7日。それ以上を希望されるお客様に応えるため、パキッとした食感が楽しめる瓦せんべい風の「THEスバル」を考案。表面の焼き印は初代レガシィセダン。賞味期限は最中の3倍の3週間だ。

瓦せんべい風の「THE スバル」。中身は初代レガシィセダンだが、包装袋は2代目レガシィツーリングワゴン。
太田の街に目を向けると、南口にできた商業ビルはしばらく盛況だったが、やがて郊外にさらに大型の商業施設ができるや一気に衰退。その後テナントが変わったりもしたが、結局ビルは解体され、近く大学が建つという。寂れた南口の商店街も今は夜の街となっている。
結局、南口に進出したお店たちも1軒また1軒と太田の街から姿を消していった。
バブル景気から不景気へと日本が落ち込んでいった時代。世の中は残酷なほどに変化していった。そんな乱世に浮き足立つことなく、菓子作りに集中した2代目の判断は、まさに勇気ある英断だ。

群馬県太田市はスバルの企業城下町と言われ、走っているのはスバル車が目立つ。一昔前はほぼ100%スバル車だったという。
3代目と3人目の師匠
現在の代表である『伊勢屋』3代目の岡田喜浩さんは、祖父である1代目、父である2代目の姿を見て育ち、中学生の頃にはお店を継ぐつもりだった。そんな岡田さんに、2代目である父は「大学に行かないと店を継がせない」といったという。
「この世界に入れば、どうしても視野が狭くなる。大学で人生の勉強をしてこい」
自分が叶えられなかったからこそ、息子には大学生活を送らせたかったのだろう。
2代目の粋な計らいに、商業高校からお菓子の専門学校に行って、店を継ぐつもりだった岡田さんは、急遽、方向転換。普通科の高校受験のために勉強を頑張り、そして東京の大学へと進学した。
大学時代はよく遊び、よくアルバイトに励み、ある意味で大学生らしい学生生活を送った。
大学卒業後は、2年間、埼玉県の本庄市の和菓子屋で修行した。
「修行先の社長さんには、本当によくしてもらいました。本来なら2年なんて洗い物しかさせてもらえないような扱いなのに、もう付きっきりで基礎から丁寧に教えてもらいました」
甘いお菓子が少なかった一昔前とは違い、世の中にはお菓子が溢れている。その中から選ばれるためにはどうすればいいか。プロとして味にムラが出てはいけない。材料の配合から形、あんこの仕上がり、火入れなどなど、時に怒鳴られながも、岡田さんは菓子職人としての基礎を徹底的に叩き込まれた。
本来3代目の岡田さんの修行は最低でも3年はやるつもりだった。しかし2年で終わったのは、『伊勢屋』の職人さんが入院して人手が足りなくなってしまったからだった。
結果、図らずも、初代、2代目、3代目ともに(ちなみに4代目も)修行が2年間なのは、妙なめぐり合わせだ。
「私には師匠が3人いるんです。まず1人目はもちろん2代目の父。2人目がこの修行先の社長さん。そして、3人目が、この伊勢屋で50年、職人として働いてくれた青木博さんです」
職人の青木博さんは、初代の祖父の時代から『伊勢屋』でお菓子職人として働いていた。いわば『伊勢屋』の生き字引みたいな方だった。
その青木さんが入院していない中、岡田さんは2代目の父に教えを請いながら、『伊勢屋』の仕事を覚えていった。ただ岡田さんのやり方は修行先の社長の影響が強く、また親子ゆえ言いたいことも言えてしまう。喧嘩は絶えなかったという。
そんな親子の間に入ってくれたのが、復帰した職人の青木さんだった。おかげで少しずつ2代目の父も3代目の息子を認めるようになり、やがて「お前に任せるよ」とお菓子作りから身を引いていった。
あまり細かいことを気にしない2代目に対して、3代目の岡田さんは几帳面。お菓子一つ一つの味や形の些細なブレにもこだわった。その甲斐あってか、「味が変わったね。美味しくなったね」と3代目の味はお客様にも好評だった。
そして、30代の若さで岡田さんは『伊勢屋』を受け継いだ。
その頃には、一時倒産の危機に陥っていたスバルもレガシィが大ヒットし、一気に全国区の自動車メーカーとなった。すると、それまではポツポツとだったスバリストたちが『伊勢屋』にも大勢やってくるようになった。
さらに「スバル最中」も2代目のレオーネから人気車種のレガシィB4へとモデルチェンジ。一気に『伊勢屋』の人気商品になった。

2025年3月末でレガシィの国内販売が終了する。レガシィを模した「スバル最中」はますます貴重な存在となる。
職人の青木さんも当初はお菓子作りをリードしていたが、「これどうしますか?」と
3代目に判断を求めてくるようになり、少しずつ主導権を移行させていった。
これからは3代目が『伊勢屋』の味を作っていくべきだという思いがあったのだろう。
そんな青木さんだからこそ、新型コロナウイルス感染症によって売上が激減する店の状況を察してくれた。
「自ら身を引いてくださいました。伊勢屋に50年。
本当にいろいろと教えてもらいました」と岡田さんは3人目の師匠の青木さんに感謝する。
それでも緊急事態は長引き、先の見えない苦境は続いた。
営業補償もないお菓子屋は全国どこもそうだったろう。
どん底の『伊勢屋』を救ってくれたのは、ほかでもないスバルを愛するスバリストたちだった。