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北海道 岩見沢市

炭鉱景気の余熱を包んだ、金色の小さな「ろまん」 (2/2)

金作屋

聞き手 丹羽亮一朗

写真 梅原渉

1945年、昭和20年生まれの杉本弘さんは、『金作屋』の歴史を誰よりもよく知る人物である。

20年前に現役を退くまで、菓子職人として半世紀近くをこの店で過ごしてきた。

オーバーサイズの半袖シャツに、ハットを被った若々しい出で立ち。

歯切れのいい語り口に耳を傾けていると、80代であることを忘れてしまう。

「親方は、中央通りにあった洋服屋の息子だったんですよ」

杉本さんが「親方」と呼ぶのは、『金作屋』の先々代にあたる宮川金雄さんのこと。
真実さんの義父にあたる人物だ。 ことの始まりは、戦前に遡る。

実家の洋服屋を継ぎたくなかった金雄さんは、岩見沢を飛び出し、満州へ向かった。
彼の地で一旗あげようという思いがあったのだろうか。

「当時のことは語りたがらなかった」
杉本さんはそう言う。

『金作屋』創業当時の店先を写した一枚。後に金雄さんが、この店の屋号を受け継ぐことになる。

やがて終戦となり、1946年、昭和21年に金雄さんは地元に戻ってくる。

何もすることがなかった金雄さんが足を向けたのが、実家の隣にあった菓子店『金作屋』だった。

明治36年創業のその菓子店でアルバイトをしながら、金雄さんは菓子づくりを一から覚えていった。

しばらくして、その『金作屋』が閉店を考えはじめる。

おそらく、後継ぎがいなかったのだろう。

ここで手を挙げたのが、金雄さんだった。

屋号を譲り受け、自らの店として新たにはじめることにしたのだ。

1953年、昭和28年頃。
4条通りの2丁目に、金雄さんは店と工場を構えた。

生まれ変わった『金作屋』が、この町で新しい歴史を刻みはじめた。

『金作屋』で半世紀近く菓子を作り続けた杉本弘さん。金雄さんとともに「ろまん」や「こぶし」といった菓子を生み出した。

駅前に、人があふれていた頃

杉本さんが『金作屋』で働きはじめたのは、1961年、昭和36年のこと。

栗沢町の農家に生まれた杉本さんは、当時、中学を卒業したばかりの15歳だった。

職業安定所から紹介され、丁稚として住み込みで働くようになった。

当時の『金作屋』は、上生菓子を扱う店として、この一帯でよく知られていた。

会社の上役や、病院の先生方の奥様たちが、手土産や盆暮れの贈り物を求めて訪れる。

そういう店だった。

杉本さんは、最初の3年は店番をつとめ、その後、工場へ入った。

昭和30年代の後半。

石炭輸送の拠点として栄えた岩見沢駅の周辺には、飲食店やデパートが軒を連ね、1日の乗降者数が2万人を超えていた。

『金作屋』の隣にはキャバレーがあり、後ろには料亭があった。

どちらも毎日、人でぎっしりだったという。 キャバレーや飲み屋の女性たちが客を連れて店を訪れ、お土産を買っていく。

ついでに、店番をしていた杉本さんにチョコレートやガムを置いていくこともあった。

店は朝6時に開き、夜10時まで営業していた。
夜も賑わう町のリズムに合わせて、店も開いていたのだ。

スライスアーモンドを乗せ、焼成を待つ「ろまん」。表面が濡れて見えるのは、霧を吹いたためだ。

工場に入ってからは、毎朝5時に起きてあんこを練るのが杉本さんの日課になった。

薪や石炭で火をおこし、機械ではなく手で練り上げる。

羊羹を練る。
練り切りをつくる。
落雁を打つ。

お盆や正月ともなれば、目が回るほどの忙しさだった。

結婚式の菓子の注文が入ると、何十箱もの菓子を自転車に積み、店と式場を何度も往復した。

「こんなに忙しいとは思わなかった。えらい目にあいました」
そう言って、杉本さんは笑う。

近隣の各地から、菓子職人を目指す若者たちが『金作屋』にやってきた。 彼らはここで腕を磨き、地元に帰ると自分の店を開いた。

そんな中で、「あなたはここに居なさい」と言われた杉本さんは、この店に残ることにした。

昭和40年頃。

ひとりの洋菓子職人が加わったことをきっかけに、『金作屋』は洋菓子も手がけるようになる。

杉本さんはその職人からやり方を学びながら、仕事の幅を広げていった。

やがて、その経験が「ろまん」へとつながっていく。

年季の入った店先の看板。『金作屋』の名を道内に知らしめたのは、この「こぶし」だった。

長く残る菓子には、底辺がある

「ろまん」誕生から4年後の1977年、昭和52年。

金雄さんと杉本さんは、さらに大きなヒット商品を生み出す。

「こぶし」だ。

岩見沢市の「市の樹」の名を冠したこの菓子は、小さな筒状のバームクーヘンの中に粒あんを詰めた、和洋折衷の菓子である。

「こぶし」も菓子博で賞を取り、岩見沢だけでなく札幌からも買いに来るほどの評判になった。

最盛期は、朝8時から夕方4時まで、製造が終わらなかったという。

昭和から平成にかけて、金雄さんと杉本さんのコンビは、その後何十年と愛される菓子を生み出し続けた。

いったいどうしたら、そんな菓子をつくることができるのだろう。

きれいな色に焼き上がった「ろまん」。返すためのへらと軍手が、手作業の現場を物語る。

杉本さんは、「底辺があるから」だという。

底辺とは、家でいうところの基礎のようなもの。

底辺がしっかりしていれば、その菓子は長く持つ。土台が中途半端で、真似事だけの菓子は、すぐに消えてしまう。

「『ろまん』でいったらそれは、皮とあんこのふれあいだ」

皮とあんこのふれあい。
その言葉が、しばらく耳に残った。

歯触りのいい生地と、バターが香る洋風の餡。

そのふたつが、手の中で無理なく重なっている。

和菓子のようで、洋菓子でもある。

素朴なようで、どこか洒落ている。 懐かしいのに、少し新しい。

言葉にすれば簡単だが、そう簡単にはつくれない。

その調和こそ、「ろまん」が半世紀にわたって残り続けてきた理由なのだろう。

『金作屋』六代目の宮川真実さん。夫・勉さんのあとを継ぎ、この店を切り盛りしている。

店番の合間に、そっと手を伸ばした味

岩見沢市の隣、三笠市で育った真実さんは、19歳で金雄さんの息子である宮川勉さんと結婚した。

勉さんは、やがて『金作屋』を継ぐことになる人物である。当時は菓子職人として店で働いていた。

「嫁ぎ先が有名なお菓子屋さんらしい」

そんな話は聞いていた。

けれど実際に店を手伝いはじめると、その忙しさはまるで別世界だった。

ゴールデンウィークやお盆ともなれば、1日に200人から300人ものお客さんが訪れた。

当時の売り場は今よりずっと広く、店内にはいつも7、8人のお客さんがいたという。

「なんだここは」

そう思いながらも、真実さんは店番を担い、ときに製造も手伝った。

3人の息子を育てながら、赤ん坊を背中におぶったまま店に立つこともあった。

周りの人たちは子育てに協力的で、「今となっては楽しい思い出」と真実さんは振り返る。

真実さんにとって、「ろまん」は少し特別な菓子だ。

実は真実さんは、小豆あんがそれほど得意ではない。

そんな真実さんが、忙しい日々の合間に手を伸ばしていたのが「ろまん」だった。

バター風味の白餡は、いつも傍にあった。

息をつく時間に。
店番の合間に。
ふっと自分に戻るときに。

「ろまん」は、真実さんにとっての思い出の味でもある。

ショーケースの真ん中、自然と視線が集まる場所に「ろまん」が置かれている。

そこにはきっと、店主としての判断だけではなく、真実さん自身の時間も重なっている。

仕事を終え、人の気配が引いた作業場。古い道具が、この店の重ねてきた時間を静かに物語っている。

町の記憶をつなぐ菓子

7年前に勉さんが亡くなると、真実さんがその跡を継いだ。

店の移転という大きな決断をしたのは、2022年のことだった。

70年近く続いた4条通りの店は老朽化が進んでおり、移転は避けられない判断だった。

こうして、「4条通りの金作屋」は、その長い歴史に終止符を打った。

真実さんの跡継ぎとなる人物は、今のところ決まっていない。

3人の息子さんたちは、それぞれの道を歩んでいる。

無理に継がせたくはない。

それは、亡くなった勉さんの思いでもあった。

一方で、周囲からは声が届く。

「店がなくなったら困る」
「こぶしをなくさないでほしい」

『金作屋』の菓子は、もう店だけのものではない。

この町の記憶の一部になっている。

「誰かに引き継ぐことも含めて、いろいろ考えないといけないですね」 真実さんはそう言う。

『金作屋』の菓子は、手土産として、贈り物として、岩見沢の人々に選ばれ続けてきた。

場所は変わった。
けれど、当時からのお客さんは今も店に足を運び、あの日と同じように、馴染みの菓子を手に取っていく。

最近多いのは、「祖母の家で食べていました」と言って訪ねてくる若い人たちだという。

祖母から母へ。
母から子へ。

『金作屋』の菓子は、この町の記憶をつないできた。

親方と職人が膝を突き合わせて考え出した、個性的な菓子の数々。

時間をかけて岩見沢の町に根を下ろしたそれらの菓子は、今日もショーケースの中で、買いに来る誰かを待っている。

その中に、「ろまん」がある。

金色のパッケージに包まれた、小さな洋風饅頭。

栗とバターの香りを抱いたその菓子には、金作屋という店の歩みが、そっと焼き込まれている。

大きな名前を持った、小さな菓子。
その「ろまん」は今日も、岩見沢の町で誰かの手に渡っていく。