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愛媛県 西条市

うちぬきの町で、今日も焼き上がる七つの記憶 (1/2)

クッキー とらや一甫

聞き手 丹羽亮一朗

写真 梅原渉

愛媛県西条市は、北に瀬戸内海のひうち灘、南に四国山地を望む町である。

その背後には、西日本最高峰の石鎚山がそびえる。

山に降った雨は、長い時間をかけて地下へ染み込み、やがて町のあちこちで湧き出す。西条では、その自噴する地下水を「うちぬき」と呼ぶ。

田畑のそばに。道の脇に。暮らしのすぐ近くに。

うちぬきの水場は市内に点在し、人々は容器を手に水を汲みに訪れる。豊かな水は、生活を支え、農業を潤し、工業にも用いられてきた。一部の地域では水道代がかからないほどだという。

水が近い町。

その西条で、昭和の頃から地元の人たちに親しまれてきた菓子がある。

「とらやのクッキー」

西条の人なら、一度は食べたことがある。そう言われるほど、この町に根づいた菓子だ。

普段のおやつに。

お歳暮やお中元に。

お祝いに。お見舞いに。子供会の集まりに。

何かあるたび、誰かの手に「とらやのクッキー」があった。

西条市玉津にある『とらや一甫』の店内。定番のクッキーは中央の最も目立つ場所に置かれている。

JR予讃線の伊予西条駅から北東へ約3キロ。交通量の多い県道13号線沿いに、一軒の菓子店が建っている。

『とらや一甫』

白を基調とした外観は、どこか絵本の家を思わせる。車の流れが絶えない道沿いにありながら、店のまわりだけ少し空気がやわらぐ。

扉を開けると、焼き菓子の甘く香ばしい香りがふわりと漂ってくる。

木の風合いを生かした店内は、天井が高く、明るい。奥にはオーブンを覗けるしつらえがあり、クッキーがこんがりと焼けていく様子が自然と目に入る。

店の中央、いちばん目立つ特等席に「とらやのクッキー」は並んでいる。

「ミルク」「さとう」「ジャム」「ココア」「コーヒー」「チーズ」「ゆず」

味は七種類。

白、黄、茶、緑。色とりどりの袋が並ぶ光景は、菓子そのものより先に、子どもの頃の無邪気な楽しさを思い出させる。

カゴを手にしたお客さんが、少し立ち止まる。

どれにしようか。誰に渡そうか。何枚にしようか。

迷う表情が、どこか楽しげだ。

種類ごとにクッキーのかたちや袋の色が異なる。白い袋は「ミルク」。絞り出しのクッキーが2枚入っている。

店の奥にある立派なショーケースには、詰め合わせが並んでいる。

25枚、36枚、56枚、73枚。

枚数を迷いなく指定する人もいる。きっと、贈る相手や集まる人数が頭に入っているのだろう。

詰め合わせに使われる鮮やかな黄色い箱も、西条の人には馴染み深い。

「どこの家に行っても見かける」と言われるほど、人々の暮らしの中に入り込んでいる。丈夫なつくりのため、食べ終えたあとは小物入れとして使われることも多い。

西条では、あの黄色い箱まで含めて「とらやのクッキー」なのだ。

お盆や年末年始になると、店はいっそう慌ただしくなる。

帰省した人たちから、注文の電話が入る。

「今帰ってきたけん、ジャムを100枚用意しといて!」

長い休みのたび、そんな声が店に届く。

帰る場所がある。

会いに行く人がいる。

手渡したい菓子がある。

その幸福な時間の真ん中に、とらやのクッキーは西条の記憶として置かれている。

生地を仕込む店主の小野耕輔さん。力仕事となる仕込みの作業は、スタッフに任せず自身の手で行っている。

焼けたそばから、店に並ぶ

『とらや一甫』の店主をつとめるのは、小野耕輔さんである。

耕輔さんによれば、「とらやのクッキー」が作られるようになったのは、今から約60年前。当時から材料も配合もほとんど変わっていない。

クッキーをひとつ手に取り、口に運ぶ。

堅すぎず、柔らかすぎない。

ほろほろとほどけ、舌に馴染み、すっと消える。

初めて食べたはずなのに、どこか懐かしい。強い驚きで惹きつける味ではない。けれど、一枚食べると、もう一枚欲しくなる。

口の中に残るのは、派手な余韻ではなく、穏やかな満足感だった。

「なぜうちのクッキーが『おいしい』『よそと違うね』と言われるかといえば、やっぱり焼き立てが並んでいるからだと思うんです」

おいしさの理由を尋ねると、耕輔さんはそう答えた。

焼き立てだから、おいしい。

あまりにもまっすぐな答えである。けれど、その素直な言葉の奥に、この店が守ってきた考え方がある。

型を握り、生地を1枚ずつ抜いていく。1日に何千枚ものクッキーを焼くため、朝から晩までこの作業が続く。

1日に数千枚が売れるという「とらやのクッキー」は、すべて手作りだ。

だから、作れる数には限りがある。

売り切れた時点で、その日の営業は終わる。お客さんに「今日はもう終わりなんです」と伝える瞬間は、やはり胸が痛むという。

それでも、その潔さが味を支えている。

作業を機械化すれば、もっと多く作れる。けれど数を追えば、在庫を抱えることになる。在庫を売ることが優先されれば、焼き立てを並べることは難しい。

手作りは、大量生産には向かない。

そのかわり、その日の売れ行きに合わせて、細かく量を調整できる。

「とらやのクッキー」の袋には、脱酸素剤が入っていない。

その日に作った分が、すぐに売れていくからだ。脱酸素剤を入れれば日持ちはするが、風味が飛ぶ面もある。とらやでは、そもそも入れる必要がない。

手で作る。

売り切れたら終える。

余計なものを足さない。

焼けたものを、焼けたうちに渡す。

それらがひとつにつながって、とらやの味になっている。

かわいらしいトラのオリジナルキャラクターは、店のために絵の得意な耕輔さんの知人が描いてくれたもの。

「なんかあったら、とらやのクッキーや」

夕方を過ぎ、客足が少し落ち着くと、耕輔さんは翌日に焼く生地を仕込み始める。

バター、砂糖、バニラビーンズをミキサーで馴染ませる。そこに卵を加え、小麦粉を入れる。

「基本中の基本です」

耕輔さんはそう言う。

ただ、その基本の中にも、この店らしさはある。

まず目を引くのが、生地作りに使う大きなミキサーだ。20コート、30コートが主流とされるなか、とらやのミキサーは70コート。数千枚分の生地を仕込むには、この大きさがいる。

1回の仕込みに使う材料は約15キログラム。

そこから、およそ1,500枚分のクッキーが焼ける。この仕込みを、通常1日に4回繰り返す。

耕輔さんの姿勢がはっきり表れるのは、材料の選び方だ。

コロナ禍が明けた頃、多くの材料が値上がりした。安価なものに切り替える同業者も少なくなかった。

けれど、耕輔さんは逆を選んだ。

バター、小麦粉、卵黄。

すべて、ひとつ質の高いものに変えた。

「なんかあったらとらやのクッキーや」

お客さんはそう言ってくれる。

だから、品質は落とせない。落とすくらいなら、作らないほうがいい。耕輔さんには、その確固たる思いがある。

「品質を落としたくないので、少しだけ値上げをさせてください」

お客さんには、冊子を通じてそう伝えた。

ネガティブな声は寄せられなかったという。

そこには、長い時間をかけて築かれた信頼がある。

材料の質を上げたことについて「よそがやってないことせなあかんなと思って。賭けですね」と話す耕輔さん。

一方で、思い切ってやめたこともある。

2年前、職人が1人辞めたのをきっかけに、それまで扱っていたケーキを作るのをやめた。

生菓子は、1日売れなければ廃棄しなければならない。今はスーパーやコンビニでもケーキが買える。

だったら、すべての力をクッキーに注ぐ。

耕輔さんは、そう決めた。

「僕はなるべく数字は見ないようにしている」

材料費を細かく見始めると、どうしてもコストを優先する考えに引っ張られてしまう。

数字のことは奥さんに任せている。「ほんとうにまずい状況になったら教えて」と伝えているのだという。

「じゃないとね、僕らも夢を売るというか。お菓子って、悲しい時には食べないじゃないですか。やっぱり笑いながら食べてほしいんで」

その言葉に、耕輔さんの菓子作りが見えた。

菓子は、空腹を満たすだけのものではない。

誰かに会う時。誰かを喜ばせたい時。場を少し明るくしたい時。

そういう瞬間に、手に取られるものだ。

だから、とらやのクッキーは、いつだって「ちゃんとして」いなければならない。

抜き終えた生地が綺麗に積み上げられていく。「ひとつひとつ、丁寧に」が店主のモットー。

手に馴染んだ、少しいびつなハート

生地を仕込んだ翌日。

一晩冷蔵庫で休ませた生地を型抜きしていくのも、耕輔さんの仕事である。

作業は、今年改修したという6畳ほどのプレハブ小屋で行われる。室温は約17度。強力なエアコンで冷やされたこの空間が、耕輔さんが1日の大半を過ごす場所だ。

温度が高いと、生地がベトベトになる。

家庭用のエアコンでは、ここまで冷やせない。この室温だからこそ、作業が進む。

気持ちがふさがないよう、小屋には丸窓が設けられている。そこから外が見える。

耕輔さんは、シーターで生地を伸ばし、ハートの型で抜いていく。

ズコズコッ、ズコズコッ。

型が生地を抜く音が、一定のリズムで響く。

15年近く続けているという作業は、驚くほど速い。しかも正確だ。ハートの形に抜かれた生地が、作業台の上に次々と積み重なっていく。

金属の型をよく見ると、左右対称ではないことに気づく。

先代の頃から60年近く使われてきた型は、人の手に沿うように、少しずつ形を変えていった。

もとは整ったハートだったのだろう。

けれど今では、桜の花びらのような、独特の風情をまとっている。

時間だけが生み出すことのできる、特別な道具。

この型は、そのひとつなのだ。

「手によくフィットするんです」

耕輔さんは、そう言う。

鉄板に並べたクッキーを窯の中へ。大きな窯は四国でも数軒にしか置かれていないものだという。

型抜きされた生地を素早く引き取り、鉄板に並べてオーブンへ入れるのは、製造スタッフの山本さんである。

2メートルはありそうな4段仕様の巨大なオーブンは、七洋製作所の「南蛮窯バッケン」。

「オーブン界のベンツ」とも称される窯だという。

4段をフルに使うことで、一度に約300枚のクッキーを焼くことができる。

焼成時間は約20分。

オーブンの奥と手前では、温度が微妙に異なる。山本さんは様子を見ながら、鉄板の位置を入れ替えたり、裏返したりして、焼き加減を整えていく。

1段分が焼ける。

間を置かず、次の鉄板が入る。

また焼ける。

また次が入る。

閉店間際まで、店内にはクッキーの香りが満ちている。