1. TOP
  2. 探訪記
  3. うちぬきの町で、今日も焼き上がる七つの記憶

愛媛県 西条市

うちぬきの町で、今日も焼き上がる七つの記憶 (2/2)

クッキー とらや一甫

聞き手 丹羽亮一朗

写真 梅原渉

『とらや一甫』の創業時期は、実のところ、はっきりとはわかっていない。

戦前から戦後にかけての時期に、祖父の小野照三氏が創業したと、耕輔さんは聞いている。

照三氏は早くに亡くなったため、耕輔さんが直接言葉を交わす機会はなかった。

俳句を詠み、骨董品を集め、絵を描く。風流で趣味の多い人物だったという。そうした活動の中で、照三氏は「一甫」と名乗っていた。

店名の『とらや一甫』は、そこに由来している。

最初の店は、伊予西条駅から歩いて5分ほどの登道(のぼりみち)商店街沿いにあった。饅頭などを売っていたという。

創業時、店にはまだ名前さえなかった。催事への出店をきっかけに、初めて『とらや』という名が付いた。

当時は、隣の今治市にも新居浜市にも『とらや』という菓子店があった。この屋号には、菓子店らしい信頼感があったのかもしれない。

登道の店は評判を呼び、まもなく周囲から請われるかたちで、駅前にも店を出すことになった。

2つの店は、『お山りさん本舗とらや』『とらや菓舗』などと名乗った。

伊予西条駅前に今も残る『とらや菓舗』の建物。2025年2月、その長い歴史に幕を下ろした。

照三氏には、3人の息子がいた。

長男の史郎氏。

次男の和夫氏。

三男の賢三氏。

賢三氏が、耕輔さんの父にあたる。

三兄弟はそれぞれ修行に出たのち、全員が菓子職人となって西条に戻った。

駅前店は史郎氏、登道店は和夫氏が任され、賢三氏は駅前店を手伝った。

大阪の菓子店で修行を積んできた史郎氏は、店に入ると洋風の焼き菓子を作り始める。

それが、「とらやのクッキー」の始まりだった。

『とらや』では、クッキーのほかにも西条にちなんだ菓子が評判を集めていた。

餡を包んだ求肥にシナモンをまぶした「お山りさん」。

求肥に胡麻や柚子を練り込んだ「うちぬき」。

「お山りさん」とは、石鎚山の登山者を指す言葉である。

石鎚山の山開きともなれば、西条には多くの登山者が訪れた。宿泊先の旅館からの注文だけで、1,000箱、2,000箱と菓子が飛ぶように売れたという。

バックヤードに貼られた店主自筆のメモ。店は、商品はどうあるべきなのか。日々の思案は尽きない。

三兄弟は、駅前店の2階にあった工場に集まり、役割を分けて菓子作りにあたった。

史郎氏が全体を統括し、和夫氏が和菓子、賢三氏が洋菓子を担当した。

それぞれに職人としての誇りがあり、簡単には譲らない。

耕輔さんは、3人がしょっちゅう喧嘩をしていたことを覚えている。

「仕事の範囲を線引きしなければ、うまく回らなかったのかもしれないですね」

耕輔さんは、そう推察する。

プライドの高さは、自分の仕事への厳しさでもあった。

3人は、前日にどれだけ深酒をしても、工場に入ればいっさいそんなそぶりを見せなかった。

弱みを見せない。

恥ずかしいものは出さない。

その姿勢は、言葉ではなく、働く背中から伝わってきたのだろう。

今は1人黙々と作業する耕輔さんだが、かつては2人の伯父、父とともに、駅前の工場に集まって手を動かした。

「やりたいようにやったらええ」

1978年生まれの耕輔さんは、父や伯父たちと同じように西条で生まれ育った。

工業高校に進んだのは、母から「機械のことを勉強しておいて」と言われたからだった。

菓子作りの機械は、いつか壊れる。自分で直せる技術があれば、業者を呼ばずに済む。

「ゆくゆくは自分が店を継ぐんだろうな」

そう思っていた耕輔さんは、母の言葉を自然に受け入れた。

高校卒業後、すぐに菓子修行の道へ進む。

製菓学校への進学は、父の賢三氏が認めなかった。

「製菓学校では基礎しか教えてくれない。最初から現場に入れば、基礎も応用も学べる」

その代わり、賢三氏は製菓学校の学費1年分にあたる200万円を、耕輔さんにぽんと渡した。

最初に入った京都の店では、激務がたたり体を壊した。

一度地元に戻り、次に香川の菓子店で働き始める。

その店には、同年代のスタッフが多かった。互いに刺激し合い、腕を競う空気があった。

自分のレベルを上げなければ、すぐに追い抜かれる。

その緊張感が、耕輔さんの心に火をつけた。

焼き上がったばかりの「チーズ」のクッキー。このあとスタッフの手で袋詰めされ、店頭へ向かう。

それまで、菓子に強い関心があったわけではない。

菓子作りは家業であり、いずれ自分がやるべきものだった。

けれど、同世代の仲間と働くうちに、見え方が変わっていく。

休日には一緒に菓子店を巡った。

おいしい菓子に出会えば、熱っぽく感想を語り合った。意外な素材の組み合わせに、「こういうのもありなんや」と素直に驚いた。

店に立てば、「こないだのあれ、おいしかったよ」とお客さんが嬉しそうに声をかけてくれる。

「自分が作ったもので喜んでくれるって、こんなにおもしろいんや」

耕輔さんは、菓子作りの楽しさに目覚めていった。

香川で修行を始めて8年が経った頃、当時『とらや』の社長だった史郎氏から連絡が入る。

「そろそろ帰ってこい」

史郎氏も高齢になっていた。早めに店のことを覚えてほしいと考えたのだろう。

耕輔さんは西条に戻り、2人の伯父と父とともに、菓子職人として働き始めた。

待っていたのは、ぶつかり合う日々だった。

修行先で学んだやり方と、『とらや』のやり方は違う。生地の仕込み方ひとつをとっても、考え方が異なる。

「こうしたほうが効率がいいのに」

耕輔さんがそう主張しても、3人からすれば、まだまだひよっこだった。

「何を偉そうに言いよんぞ!」

言い合いが激しくなることも、一度や二度ではなかった。

3人のことは尊敬していた。向こうの言い分もわかる。

でも、こちらにだって言いたいことはある。

お互いに歩み寄れないまま、はがゆい日々が5年近く続いた。

看板には「愛媛伊予西条」の文字。この土地でしか買えないお菓子であることに、店はこだわり続けている。

転機となったのは、2016年の玉津店の開店だった。

新店舗の設計と運営は、耕輔さんに一任された。

「やりたいようにやったらええ」

父の賢三氏は、そう言った。

この土地にクッキーのための工場を作ることは、しばらく前に亡くなっていた史郎氏の願いでもあった。

こうして耕輔さんは駅前店を離れ、玉津店に専念することになった。

玉津店のオープンからまもなくして、登道店は長い歴史に幕を閉じた。

2025年には、駅前店もそれに続いた。

和夫氏と賢三氏の年齢を考えれば、それは自然な決断でもあった。

かつて人の流れを受け止めてきた店が、ひとつ、またひとつと役目を終えていく。

それでも、とらやのクッキーの香りは、この玉津店にしっかりと残った。

「カステラクッキース」と書かれた黄色い箱も、トラの絵が描かれた紙袋も、クッキーと同じくらい西条の人々に親しまれている。

変えずに残す、という仕事

玉津店を任されるようになって、約10年。

もくもくと仕事に向き合う中で、耕輔さんの胸には、今あらためて先代たちへの感謝が湧いてくるという。

先代たちは、クッキーだけを残したのではない。

この町の人々から寄せられてきた信頼を残してくれた。

玉津店の開店にあたり、新しいクッキーを作れないかと考えたことがある。

けれど、既存の七種類のレベルに達するものが、どうしても思い浮かばなかった。

「どこにでもありそうな感じがするけど、うちにしかない。すごいなと思います」

「とらやのクッキー」は、このままでいい。

何も変えない。変えたらいけない。

今では、耕輔さんはそう思っている。

色鮮やかな袋も、どこの家にもある黄色い箱も、これからもデザインを変えずに残していくつもりだ。

どこにも卸さず、この店だけで売る。あえて広げない姿勢を「とらやのクッキー」は守り続けている。

耕輔さんの夢枕には、先代の社長だった史郎氏がたびたび立つという。

夢の中で、2人はかつてのように同じ現場で仕事をしている。

「あれ、なんでおるん?」

耕輔さんは、いつも不思議に思う。

「それって多分、『もっとがんばれ』って言われよんかなって思います」

クッキーをオーブンから出すタイミングが、わずかに遅れることがある。

素人目には問題ないように見えても、焼きすぎたものは店頭に並べない。

「お客さんに恥ずかしいもんは出せれん」

「これでいこか」と、妥協したくなる気持ちをぐっとこらえる。

潔く諦める勇気。それは、先代たちと一緒に仕事をする中で、耕輔さんが学んだことだった。

西条で愛され続けるクッキーが受け継いでいるのは、レシピや意匠だけではない。

妥協しないこと。今できることを、丁寧にやること。お客さんに恥ずかしいものを出さないこと。

うちぬきの町で、今日もクッキーが焼き上がる。 店の扉を開けると、あの懐かしい香りがいつでも私たちを迎えてくれる。

白、黄、茶、緑の袋。

どこの家にもあった黄色い箱。

少しいびつなハート型。

オーブンから出てくるクッキー。

「なんかあったら、とらやのクッキーや」

その言葉が西条で生きている限り、とらや一甫の仕事は、明日もまた始まる。