1. TOP
  2. 探訪記
  3. 和菓子の名人から受け継ぐ、バター香るしあわせの焼き菓子

東京都世田谷区

和菓子の名人から受け継ぐ、バター香るしあわせの焼き菓子 (1/2)

ハネムーン 東宮

聞き手 小林みちたか

写真 梅原渉

東京都世田谷区。小田急線千歳船橋駅周辺は、大型施設や高層ビルもなく、閑静な住宅街と下町風情の残る商店街が広がる落ち着いた街並み。

北口の商店街から伸びる「森繁通り」は、この街に長く暮らした国民的俳優・森繁久彌の邸宅が通り沿いにあったことから名づけられた。

そんな名優にも愛されたであろう、和菓子屋がある。

南口徒歩1分に店を構える『東宮(とうみや)』。

創業者は「西のきぬかけ、東の東宮」と称された和菓子の名人・宮澤秋美さん。

とりわけお茶会で『東宮』の上生菓子は重宝され、お茶の世界では知らぬ者がいないほどという。

皇室への献上菓子をはじめ、数々の賞に輝くなど名誉ある実績を残してきた名店中の名店だ。

和菓子は季節を先取りして表現するもの。『東宮』には、季節ごとに様々な菓子が並ぶ。

平日の昼間でも、お客様がひっきりなしに訪れる。

道ゆく人たちも趣ある店構えを指さし、「ここ有名なんだよ」とつぶやいていく。

ここ数年は、「わらび餅」が特に人気という。

京都府産のきな粉や北海道産の小豆など、厳選した素材を使って毎朝丁寧に仕込まれる「わらび餅」は、もちもちとした噛み応えがありながら、あっという間にとろりと口の中で溶けていく。その澄んだ味わいは、添加物を使わず、昔ながらの製法を大切にしているからこそ実現できる。

そんな芸術品のような和菓子の包み紙には、かの詩人・作詞家のサトウハチロー氏の詩がしたためられている。

「たった一つの ハネムーンが この家の空氣までも おいしくしています」

唄われる「ハネムーン」もまた、『東宮』を語る上で欠くことのできない大切な和菓子の1つである。

洋風菓子「ハネムーン」の詩を書いたサトウハチロー氏と創業者の宮澤秋美さんは、自宅を行き来するような仲だったとか。

京の東に、宮澤あり

創業者の宮澤秋美さんは、長野の生まれ。終戦を疎開先で迎えた後、東京へやってきた。

「祖父についてはわからないことも多くて。どこかで和菓子の修行をしたとは思いますが」

そう語るのは、秋美さんの孫である3代目の宮澤昭憲さん。俳優のような端正な顔立ちもあって、今年
60歳とは思えない精悍さ。名人の跡継ぎでも、偉ぶるところが微塵もない。

秋美さんは、創業する直前、東京の高円寺にある和菓子屋で若い職人たちに菓子作りを指導していたという。すでに、その頃には、秋美さんの作る和菓子は評判になっていて、満を持しての独立だった。

創業は、1961年(昭和36年)の秋。

当時も今も和菓子といえば、京都。その京都から見て、東にある東京に宮澤あり、と言われるような店にしよう。そんな和菓子職人としての気概と自負を込めて、店名を東の宮澤から『東宮(とうみや)』と名づけた。

『東宮』の3代目・宮澤昭憲さん。大学時代はゴルフに明け暮れた。「今思えば、お茶の世界を学んでいたりすればよかったですね」と笑う。

やがて、「西のきぬかけ、東の東宮」と称されるように。まさに有言実行。

千歳船橋には縁もゆかりもなかったようだが、「店を出すなら、一等地にと思ったのでしょう。まだ開発される前でしたが、駅の目の前の土地に決めたようです」

その頃の千歳船橋駅周辺は、農村からベッドタウンへと大きく変貌する最中。どんどん発展していった駅から徒歩1分となれば、商いにはこの上ない立地。

「お店で買ってすぐに電車に乗って行かれるお客様もいますから、場所も良かったですね」と3代目の
昭憲さんも祖父の慧眼に感心する。

そんな秋美さんの名声は創業後も高まり続け、和菓子協会に請われて全国の和菓子職人たちを指導する役割も担った。

お店にも「無給でいいから、修行させてください」と弟子の志願者がやってきて、多い時には十数人もの若い職人たちが働いていた。

秋美さんから和菓子作りを学び、和菓子屋を営んでいるお弟子さんたちが、今も全国にたくさんいるという。

そして『東宮』は、息子、孫へと受け継がれていった。

老舗らしい趣ある『東宮』の店内。「今では信じられませんが、和菓子を作れば、すぐに完売。一度店を閉めて、出来たら、また店を開ける。 そんな時代があったそうです」と3代目の昭憲さん。

30歳からの挑戦

2代目は、昭憲さんの父・勝昭さんが社長として経営を担い、菓子作りは叔父にあたる父の弟が担った。

「父は長男でしたが、大学卒業後は一時、弁護士を目指していたくらいで、祖父から跡継ぎを強要されることはなかったようです」

やがて、昭憲さんが生まれると秋美さんはたいそう可愛がったという。

「祖父にとっては初孫でしたから。でも私は厳しかった祖父の記憶の方が強いですね」と昭憲さんは笑う。

その初孫には、「子どもの頃から器用な方で、おじいさんの孫だからだね、とよく言われていました」と菓子職人としての才能もしっかりと受け継がれていた。

周りも「お前が『東宮』を継ぐんだよ」と期待し続けていた。ただ、昭憲さんもまた、父同様に、祖父から直接「跡を継げ」と言われることはなかった。

いつかは継ぐのだろうと心のどこかにはありつつも、あまり意識することなく成長していった。

父と同じ早稲田大学法学部に進学したのは、世の中がバブル経済で浮かれていた頃。私大文系の最高峰ともなれば、就職先も一流企業を選び放題だっただろう。

しかし、昭憲さんは、「東の東宮」と言われた名人の店を潰していいのかと考えると、一般企業へ就職する気にはなれなかった。

自分は同級生たちのような人生は歩めない。そんな虚しさを抱えながら、アルバイト先だった銀座のイタリア料理店にそのまま就職。シェフとして働いた。

そして30歳で、和菓子の世界へ。

遠回りしている暇はない。すぐに『東宮』での修行が始まった。