広島県 府中市
宣伝ゼロでも全国から注文殺到。旨味したたる洋酒のケーキ (1/2)
くにひろ屋
聞き手 小林みちたか
写真 梅原渉

広島県の中東部に位置する上下町(じょうげちょう)。
かつて江戸幕府の直轄地として栄えた町には、今も当時の栄華を偲ばせる町並みが残り、周囲には豊かな自然と美しい田園風景が広がっている。
そんな上下町に、たった1種類のケーキをひたすら作り続けるお菓子屋さんがある。
『くにひろ屋』
カステラにラム酒とブランデーの特製シロップをたっぷり浸した「洋酒ケーキ」は、スイーツ好きはもちろん、お酒が苦手な人でも病みつきになる程の味わい。
これまで宣伝も、営業も、いっさいなし。
それでも全国からお取り寄せの注文が舞い込む。口コミは絶賛のコメントで埋め尽くされている。
以前、グルメで鳴らす大物タレントが「これ美味しい!」と絶賛して、大変なことになったこともあり、最近は人気テレビ番組からのオファーもすべて断っている。
「お土産で食べて美味しかったからという方がほとんど。ありがたいです」と語るのは、『くにひろ屋』の代表・前原浩一さん。
2005年に創業者の故・曽根利之さんから店を引き継いだ。
「曽根さんが作ったこのケーキの味をとにかく守っていく。それが私の役目です」

『くにひろ屋』の「洋酒ケーキ」。地元・上下町では、コンビニでも買うことができるソウルフード。カステラを思わせるスポンジにたっぷりと洋酒のシロップが染み込んでいる。
さっぱり売れなかった洋酒ケーキ
『くにひろ屋』は、尾道の洋菓子店で修行した曽根利之さんが、20代で創業した。
1961年のこと。この同じ年、『くにひろ屋』の隣の家で生まれたのが前原さんだった。その赤ちゃんが、やがてお店を引き継ぐことになるのだから、人生とは不思議だ。
当時の上下町には、お菓子屋は他に1軒あったが、お饅頭しか扱っていなかった。
一方、『くにひろ屋』に行けば、「和菓子でも、洋菓子でも、クリスマスケーキでも、曽根さんがなんでも作ってくれた」という。
洋酒ケーキは、そんな『くにひろ屋』の創業ケーキ。
尾道での修行時代。曽根さんは東京からやってきた菓子職人から、フランスの焼き菓子「サバラン(Savarin)」を学んだ。
ドーナツ型のブリオッシュ生地(菓子パン)に洋酒入りのシロップを染み込ませた18世紀からある伝統的なケーキ。
曽根さんは、これだ!と思ったのか、自分の店を構えたら作ろうと考えたのだろう。
ただ、そのままのサバランでは、田舎の上下町では受け入れられないと思った。そこで当時、みんなに馴染みのあったカステラをベースにしたオリジナルレシピを考案した。
「実は、最初は「サバラン」という名前で売り出したらしいです。でも田舎の人にはなんのこっちゃですよね。それで、洋酒ケーキと名前を変えたそうです」
だから、今でも洋酒ケーキのパッケージには、「Savarin(サバラン)」と書かれている。
それでも時代が早かった。
「まだまだみんな日本茶にお饅頭で、ケーキを食べる習慣がなかったんでしょうね。ましてやこの田舎ですから」
町で評判の『くにひろ屋』でも、洋酒ケーキはさっぱり売れなかったという。

『くにひろ屋』の2代目・前原浩一さん。創業者の曽根さんの息子さんとは幼馴染。「子供の頃はよく一緒に遊んでいました。曽根さんがお菓子を作る姿もよく覚えています」
ようやく時代が追いついた
隣に住む前原さんはというと、大学を卒業してすぐに実家のスーパーを継いだ。長男で、家業を継ぐ以外の仕事は考えたこともなかったそうだ。
やがて、酒税法の規制緩和がはじまった。免許制が撤廃され、誰でもお酒を売れる時代になった。途端に、前原さんの営むスーパーのお酒が売れなくなってしまった。
落ちた売り上げを何かでカバーしなければいけない。
そう考えた前原さんはスーパーと並行して、仕出し屋をはじめることにした。注文を受けて弁当を作る。調理経験はなかったがやるしかない。すると、これが大当たり。
「お酒の補填ではじめたつもりが、もう殺されるかと思いました」というほど。
主に葬儀屋からの注文を受けていたのだが、週末の法事に、急な葬儀が入ってきたりする。
すると今晩のお弁当、明朝のお弁当、お昼のお弁当……と作り続けないといけない。
「もういつ寝るんだっていう感じでした」と苦笑い。だから、仕出し弁当を常に100食は作れるような体制を整えていたという。

前原さんが営むスーパーでも洋酒ケーキに似たブランデーケーキを売っていたが、「お酒もスプレーでパッとまぶす程度だから、洋酒ケーキとは香りがもう全然違っていましたね」
その頃、隣の『くにひろ屋』をのぞくと、なんでも作れる曽根さんが、ひたすら「洋酒ケーキ」だけを作り、町内のお店に卸すようになっていた。
日本人の生活スタイルも欧米化が進み、当たり前のようにコーヒーや紅茶を飲んでは、ケーキを食べるようになっていた。
ようやく時代が追いついたのだ。洋酒ケーキの美味しさが上下町の人たちに知れ渡り、需要が急増していた。
「たとえば焼いて終わりのカステラと比べれば、洋酒ケーキはもう一手間ある。上下町でしか商売をしていなかったとはいえ、曽根さん夫婦2人では、他のお菓子を作る余裕はなかったんでしょう」
「洋酒ケーキ」だけを作り続ける『くにひろ屋』とスーパーと仕出し屋の二刀流に奮闘する前原さん。
お隣同士の商店の運命は、やがて1つになる。2005年の時だった。

2015年頃に導入したセンサー付きのパッケージング設備。脱酸素剤も個包装できるようになった。現在の生産力は1日平均7000個、ピーク時には8500個。
上下町の財産を失いたくない
「もうじき70歳、体もしんどくなった。もう辞める」
前原さんは、曽根さんから、そう聞かされた。
『くにひろ屋』は、幼馴染の曽根さんの息子が継ぐものだと思っていたが、当の本人はまったく興味がなく、別の道へと進んでいることもその時はじめて知ったという。
「こんなに美味しくて、町内でも人気のケーキなのにとショックでした」
自分のやっている仕出しの仕事は、町内にも他にお店がある。スーパーももちろんある。でも、この洋酒ケーキは、『くにひろ屋』にしか作れない。
「上下町の大切な財産がなくなる。それなら自分が継がなきゃいけん。そう思いました」

10年ほど前に現在の場所に移転した。上下の地名は日本海側と瀬戸内海側に流れる分水嶺があることから「水が上下に分かれる地」という意味で名付けられたといわれる。お店から2キロほど道を上ると「分水嶺の碑」がある。
もちろん他にも手を上げた人もいた。大きなスーパーからは「パンの部門があるから、そこで作らせて」という話もあったという。
しかし、曽根さんは、今、卸している町内のお店を大切にしたかった。1軒のスーパーが独占するようなやり方は嫌だった。
そんな曽根さんの気持ちを知った前原さんは、これまで通り町内のお店に同じように全部卸すことを約束した。
「それなら、ありがたい」と曽根さんは、『くにひろ屋』と一緒に生まれ育ってきた前原さんに、洋酒ケーキを託そうと決めた。