【第 10 回】

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新潟県 糸魚川市 ミニロール 御菓子司 長野屋

取材NGの極秘製法でつくる、クリームの飛び出さない不思議なケーキ (1/2)

聞き手 小林みちたか

写真 梅原渉

新潟県糸魚川市の西の端。富山県との県境の町・青海。

目の前にはその名の通り美しい青い日本海が広がり、振り向けば、新潟百名山の青海黒姫山が雄大にそびえる。

その海と山にはさまれた青海駅から歩いて2分。

以前はにぎやかな商店街だったという静かな県道に、来年創業100年を迎える老舗菓子屋がある。

『御菓子司 長野屋』

地元の銘菓から普段使いの和菓子、洋菓子、ケーキにアイスと幅広いラインナップの中で、冬の人気No.1商品は、ちいさなロールケーキの「ミニロール」。

味はバニラ、小倉、チョコ、チーズ、抹茶の5種。10月から4月末までの限定商品だ。

ロールケーキといえば、大きな口でもぐっと食べる満足感がうれしい反面、たっぷりのクリームがむにゅっと飛び出してしまうのが難点。

ただ『長野屋』の「ミニロール」は、ちょっと違う。

指2本でも持てるちょうどいいサイズはカットする手間もなく、口の小さな子供でも食べやすい大きさ。

そして何より勢いよく食べても、たっぷり入ったクリームが飛び出さないのだ。

見た目はいたって普通のロールケーキ。なのに、どうして『長野屋』の「ミニロール」はクリームが飛び出さないのだろう。

その秘密は、取材NG、撮影NGの超極秘製法にあるという。

そんな門外不出の「ミニロール」が生まれたのは、いまからなんと50年以上も前なのだ。

新潟百名山の青海黒姫山。国内有数の採掘量を誇る石灰石鉱山で、標高1221mの頂からは日本海の大海原が見渡せる。

生まれた時から決められた人生

1926年、昭和が幕を開ける年に菓子職人だった長野光男さんが、青海の駅前に『長野屋』を創業した。町ではじめてのお菓子屋さんだった。

その少し前に、青海黒姫山から石灰石を採掘する工場が山のふもとにできた。
「この町は発展する」と見込んだ光男さんの読み通り、『長野屋』の前の通りは商店街になり、八百屋に魚屋に文房具屋などなど一通りなんでもそろう町になった。お菓子屋さんも最盛期には6軒まで増えた。

創業間もない頃の採掘工場内で営業していた『長野屋』の売店。最盛期には3店舗あった。

光男さんは女の子ばかり3人の子宝に恵まれ、長女のアサさんが東京の製菓学校でお菓子作りを学び、店を手伝った。

やがて学校の先生と結婚したアサさんに男の子が産まれる。
すると光男さんは「お前は長野屋の跡取りだ」と唱えつづけた。

「それがもうほんとうに嫌で嫌で」と笑うのは、2代目の長野公博さん。

子供ながらに将来を夢見ることも許されず、人生を決めつけられたように感じたのだろう。

「高校受験の頃が1番嫌でした」と祖父に反発しつづけていたが、プレッシャーは厳しく、高校卒業後は母のアサさんと同じ東京の製菓学校でお菓子作りを学んだ。

そして祖父の意志通り2代目として店を継いでからしばらくすると、とんでもないニュースが舞い込んできた。

町に日本最大のパンメーカーY社がやってくるというのだ。青海の菓子組合は、「そんな大資本のメーカーがきたら、みんな潰れてしまう」と断固受け入れ拒否!

ただ、公博さんだけは違った。

「逆に一緒にやった方がいい」

この決断が『長野屋』の運命を大きく変えることになる。

『長野屋』の店内は、改装から日も浅くとてもキレイ。ただレトロなデザインが素敵な床のタイルは、なんと創業当時のまま。工事の際に「このタイルは貴重だから残した方がいい」とすすめられたという。

ロールケーキが売れない

2代目の公博さんは、『長野屋』でY社の商品を扱うと手を上げた。そうすれば、注文した分しかY社の商品は入ってこない。他の店でY社の商品をどんどん売られるよりも、マシだと考えたのだ。

創業者の祖父・光男さんは菓子組合の副会長だったこともあり、表立っては賛成できない立場だった。そこで公博さんは、光男さんが2週間の温泉旅行へ行っている間に、Y社の商品を扱えるように店を改装してしまったのだ。

冬の看板商品「ミニロール」。10月からGWの頃までの限定商品のため、終売直前に大量に購入し、冷凍しているお客様もいるとか。

温泉から帰ってきた光男さんはさぞびっくりしたことだろう。
しかし意外にも怒ることなく、むしろ店がキレイになったと喜んだそうだ。

「無理やり孫の私を2代目にした負い目があったのかもしれませんね」

そう述懐する公博さんのY社を取り込んだ決断は、吉とでる。

公博さんが東京の製菓学校で学んだのは、あくまでもお菓子作りの基本。そのあとすぐに『長野屋』を継いだので、いわゆる修行をしていなかった。

「だからY社の製品を参考にして、もう少し甘さ控えめの商品をつくろうとか、自分たちの商品開発に活かしたり。工場見学も毎年あって、大手のやり方を学ぶことができましたね」

生クリームを使ったのも青海の町では『長野屋』が1番最初だったそうで、その頃から商品にも洋菓子やケーキが増えていった。

しかし、いいことばかりでもなかった。

人気商品だった『長野屋』のロールケーキが、まったく売れなくなってしまったのだ。

昭和元年創業の『長野屋』は、実は暖簾分け。本家は同じ糸魚川市の梶屋敷駅付近にあった。ただすでに廃業している。

逆境から生まれた「ミニロール」

当時『長野屋』のロールケーキは、1本500円程度。対して、Y社のロールケーキは、1本250円程度。

いくら『長野屋』が青海で最初のお菓子屋さんといえど、同じ値段で、Y社なら2本買えるのだから、あっという間にロールケーキのシェアを取られてしまった。

「参りました。ロールケーキはもう無理だと思いました」と2代目の公博さん。

まったく違う商品にしないと太刀打ちできないと腹をくくった。

あらためてロールケーキを考えると、人気はあったが、やはり丸太のような形状は食べるには大きい。もちろんカットすればいいが、手間だし、カットしても一口では口に入らない。

さらに、前にも後ろにも切り口があるから、たっぷり入ったクリームがもれ出してくる。

それならばと、2代目の公博さんは考えた。

「女性でも一口で上品に食べられるようなサイズで、しかもクリームが絶対飛び出さない。そんなロールケーキに生まれ変えよう」

『長野屋』の「ミニロール」は、まさに手のひらサイズ。たっぷりとクリームが入っているのに、スポンジをギュッと潰しても不思議と飛び出さない。

ただ当時は、クリームが飛び出さないロールケーキなんて見たことがなかった。その理由はつくりはじめるとよくわかった。

クリームが柔らかくないとダメだったのだ。

なんとか柔らかそうなクリームを見つけ、試行錯誤しながら何度も何度も試作を重ねた。スポンジをギュッと潰しても飛び出してこない、ちょうどいいバランスのクリームづくりは困難を極めた。

その製法は企業秘密。

「いつものように横になって考えている時に、パッとアイデアが浮かんできた!」そうで、「普通にはちょっと考えられないようなやり方でもって、蜜をつくったりして、クリームと合わせたり……」と少しだけ教えてくださった。

そして「クリームの飛び出さない食べやすいロールケーキ」が生まれた。

名前は「ミニロール」と名付けた。

ただ、すぐには売れなかった。お客様はY社の安いロールケーキを買っていく。

「初めてのものは買いにくんだろうなとは思っていました。でも、食べてもらえれば、評価してもらえる自信はありました」と2代目の公博さん。

だから粘り強く売りつづけた。

そんなある時、知人から出産祝いの返礼品を頼まれた。チャンスと思った公博さんは、どら焼きをアレンジした創作和菓子とセットで「ミニロール」を出した。

「あのミニロールっての、おいしいね」

やはり食べてもらえばわかるのだ。これをきっかけに口コミが広がり、返礼品やギフトにも使われるようになり、人気商品へと成長していった。

そして、長男の孝一さんが店を継ぐと、「ミニロール」は、さらに進化していった。