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新潟県 糸魚川市

取材NGの極秘製法でつくる、クリームの飛び出さない不思議なケーキ (2/2)

ミニロール 御菓子司 長野屋

聞き手 小林みちたか

写真 梅原渉

誰にも内緒で決めたお菓子屋への道

3代目の孝一さんは、子供の頃からとにかく味覚が鋭かったという。

どら焼きを食べ比べては、「豆の風味がする」「あんこがおいしい」「皮の口溶けがいい」「ボソボソしている」と店ごとの味の違いを評価できたというのだ。

そして1番おいしいと選ぶのは、決まって『長野屋』のどら焼きだった。

そんな鋭い舌を持ち、味の好みも父に近いとなれば、『長野屋』の跡継ぎにはもってこい。

ただ父の公博さんは「家業を継げ」と言うことはなかった。「自分が散々言われて嫌だったから」だ。

それにお菓子屋は厳しい世界。覚悟が求められる。自分自身で決断させたかった。

当の孝一さんは、「物作りは好きだし、甘いものも大好き。長男だったし、なんとなく継ぐのかなあとは思っていました。ただ、どうしてもやりたいわけでもなく、逆にやりたくないわけでもなかったです」

だから当初は大学進学を目指した。地方の大学に合格したが、意中の大学ではなかった。

公博さんたちは、てっきり浪人すると思っていたそうだ。

しかし、孝一さんは両親に内緒で、祖母、父が卒業した同じ東京の製菓学校へと進学した。

「田舎から田舎に行くのは嫌だなって」と笑う孝一さん。

合格したのが意中の大学だったら進学していたというが、「でも同じだったかもしれませんね。結果的にはよかったですから」と後悔はない。

急いで願書を取り寄せて受けた製菓学校の入学試験は、ギリギリ最終日だった。

3代目の孝一さんは、都内の洋菓子店で3年ほど修行した。「とにかく忙しかったですが、つくるのが好きだったんで楽しかったですね」

いつもお菓子のことが頭の片隅に

孝一さんは東京の製菓学校を卒業後、都内の洋菓子店での修行を経て、『長野屋』の3代目となった。

修行時代とは違い、今度は指示通りつくるだけではない。「自分で考える」という要素が入ってくる。孝一さんには、それがさらに面白かった。

「修行時代は先輩に聞けばなんでも教えてもらえました。でもここではできません。もちろん親に相談はできますが、指導とは違いますから」

最後は自分で考え、決めなければならない。その責任の重さが、「やりがいになっている」

父の公博さんの頃と比べると、時代とともに材料も素材も変わってきている。メーカーの事情で使っていた材料がなくなることもある。

だから極秘製法の「ミニロール」も、ベースとなるレシピはそのままだが、クリームも生地も変化させている。

「それが結構大変で」と悩むこともあるが、「結果的に味が良くったりして、進化につながっている」という。

「お酒やタバコもダメ。甘いもの専門です」という3代目の長野孝一さん。子供の頃に両親を驚かせていた繊細な舌は今も健在だ。

またお客様に教わることもある。

「ミニロール」のチョコ味が生まれたきっかけは、お客様の「チョコ味も食べたいなあ」という何気ないつぶやきから。

孝一さんは、それならとチョコ味の試作を重ねては、お客様の感想を聞いて集めていった。
お客様からは自分たちとは異なる感覚を知ることができるそうだ。

そして、お客様の声も参考にしながら、『長野屋』の味に仕上げ、「ミニロール」のチョコ味を生み出していった。

それで終わりではない。

3代目の孝一さんもまた、突然アイデアがひらめく時がある。

「このクリームの作り方をこう変えたらいいかもとか、あの材料使えるんじゃないかとか。忙しい時に限って思いつくことが多いんです」と笑う。

それはいつも頭の片隅にお菓子のことがあるからだろう。

「問屋さんと話したり、流行のお菓子を食べたり、いろいろと情報を仕入れるのが好きなんです。それを自分の中に蓄積させていく。すると、ある時に回路がつながるみたいに、アイデアがひらめくんです」

そんな日々の取り組みは、「単純に好きだから」で、「仕事だからやっているわけではない」という。

ただただ、お客様に喜んでもらうため、おいしいものをつくっていきたいという思い。

その気持ちは、この仕事をはじめたときから、ずっと同じだ。

さらに、孝一さんは、あらたに新聞の折り込み広告をしたり、くじ引きの景品にしたりしながら、「ミニロール」の名前と味を広めていった。

やがて「ミニロール」は、冬の人気No.1商品となった。

「ミニロール」と名付けたのは、孝一さんのお母様。さらに放射状の細いラインにタスキをかけたのようなレトロなパッケージもお母様が考案した。

細く、長く、流れるままに

孝一さんが『長野屋』の3代目となってから、25年。青海の町の景色はずいぶん変わった。

駅前の商店街がにぎわっていた町は、2005年に糸魚川市に吸収合併されると途端に市の1番端っこの町になってしまった。

一気に人口は減少し、『長野屋』の前の通りからも、次々と店がなくなっていった。

「これからはまったく別の着想が必要だと思っています」と孝一さん。

青海だけではなく、糸魚川市の中心からも買いにきてもらえるよう。あるいは、市外からも、県外からだって、という発想に変えていく必要があるという。

広告宣伝やSNSの活用といったあらたな取り組みもはじめている。

発想の転換は、距離的な客層の拡大だけではない。

「時代に合わせて、若い世代にも買っていただけるようなお菓子作りをやっていかなければ」とも。

かといって流行を追えば、すぐに廃れる。だから、時代には乗っても、乗りすぎない。

「お客様はやっぱり正直。だから自然とお客様の口に合うように、その土地に合ったものになっていく」という。それが青海の町でしかつくれない『長野屋』の味になる。

『長野屋』は、来年で創業100年。節目を3代目として迎えるが、

「それはたまたま。プレッシャーもないです。お店をこうしたいとか、あまり強い意志もない。流れに身を任せるタイプなので」と孝一さんは笑う。

ただただ、お客様が求めているものに応えていく。

「その流れの中で、自分の思いが噛み合った時に、うまく発展していけるのかなと思っています。やっぱり商いは、お客様あってのものなので」

曽祖父の光男さんが創業し、2代目の父・公博さんが「ミニロール」を生み出し、孝一さんが人気商品へと育てていった。

ゼロから何かを作り出すよりも、今あるものを活かしながらガラッと改良していく方が得意だという孝一さん。

『長野屋』には、100年の歴史という偉大なベースがある。そんな素材から、この先、どんなお菓子を生み出していくのだろう。

「大ヒットしなくてもいいんです。細くてもいいから長く長く、お客様にずっと食べてもらえる息の長いお菓子をつくっていきたいですね」