1. TOP
  2. 探訪記
  3. 幻の魚の洋菓子? 元エンジニアが受け継ぐ名産菓子の物語。

青森県 西津軽郡 鰺ヶ沢町

幻の魚の洋菓子? 元エンジニアが受け継ぐ名産菓子の物語。 (2/2)

イトウ焼 銘菓の店 山ざき

聞き手 小林みちたか

写真 梅原渉

脱サラの末に得たよろこび

「中学生の頃にオーディオに興味を持ったんです。評論家の長岡鉄男さんの影響を受けてましたね」

長岡鉄男さんとは、生涯に600種類もの自作スピーカーの設計を発表したとも言われるオーディオ評論の巨匠だ。

「長岡さんが言うには、音楽メディアは伸びしろはないけど、スピーカーだけはまだあって、スピーカーというのは主にマグネットとコイル、そして振動板で構成されていると。それで金属って面白い、そんな素材のことをもっと知りたいなと思ったんです」

音楽ではなく、その素材に興味を持つところが、ものづくり職人の血筋なのだろう。そして高校卒業後、北海道の工業大学へ進学。金属を学び、卒業後は素材系の化学メーカーに入社した。

「かなり大きな会社で、配属はガラスの研究所。金属を学んできたのにと戸惑いました」

会社としてはそこで経験を積ませるためだったのだろうが、異分野に加え、周りは国立大学卒のドクター(博士号)ばかりで圧倒されてしまったという。

「定年までやっていけるだろうか」と不安は尽きなかった。

3年余りエンジニアとしてガラスの設計に携わっていたが、製品のすべてを作っているわけではない。あくまでも一部分。製品を使ってくれるお客様との関係も間接的だ。

一方で、山崎さんは、幼い頃から「山ざきのお菓子は美味しい、お土産に持って行くと1番喜ばれる」という言葉をよく耳にしていた。

そんな記憶が、山崎さんの心を揺れ動かしたのかもしれない。

「エンジニアとして働いている間も、親父からは「いつ戻ってくるんだ」っていつも言われていました。定年まで働ける自信もない。家業の山ざきは自分が継がなければ、跡継ぎもいない。それなら継ごうと決心しました。戻ると伝えたら親父も喜んでくれましたね」

当時同じ会社の事務職で働いていた後の妻となる寿江さんを連れて退職。すぐに結婚し、青森市内の工場でお菓子作りの修行に励んだ。

お菓子作りの経験のなかった妻の寿江さんも、山崎さんと一緒に青森市内のお菓子屋で修行した。

「とにかく仕事量がすごかった。毎週末結婚式の注文が入ってきて、生菓子やら和菓子やらを大量に作らなければならなくて。お菓子屋の息子といっても、これまでは袋詰めとか箱作りくらいしかやったことがなかったので、修行先がはじめてのお菓子作りでした」

あんこ作りから始まり、焼き物、生菓子と3年間で基礎を学び、『山ざき』に帰ってきた。

28歳。すでに2代目である父は60歳を超え、少しずつ細かな作業も難しくなってきていた。急ぐように仕事を覚え、30歳をすぎた頃には、3代目として「イトウ焼」で全国菓子大博覧会の技術賞を受賞するまでになった。

以後も、どら焼きやモナカ、焼き菓子、洋菓子といった日常使いの定番のお菓子に加えて、地元に根ざしたお菓子作りは、3代目の山崎さんにもしっかりと受け継がれている。

3代目の山崎さんが開発した「わさおサブレ」。店からすぐ近くにある海の駅わんどの「わさおの記念像」は、人気の撮影スポットになっている。

鰺ヶ沢を一躍全国区にしたぶさかわ犬の「わさお」にちなんだ「わさおサブレ」は、「わさおのお菓子を作ったら」というお客さんの声に応えた商品だ。

イトウが養殖されている赤石川に棲むアユは金色を帯びていることから「鰺ヶ沢の金鮎」として有名で、抹茶餡入りの鮎型モナカ「金のあゆ最中」として商品化した。

「元はエンジニアですから素材を活かして派生させていくというのは得意なんです。それはお菓子作りとも共通する感覚かもしれないですね」

そんなエンジニア時代も、マシーンのように大量にお菓子を作り続けていた修行時代も感じることのなかったやりがいを今は日々感じているという。

「この商売は、作れば全部ヒットするわけじゃない。50も60も作って、1個か2個残ってくれたらいいぐらいのもん。そうやって苦労して作ったお菓子を美味しいといって喜んでもらえたら、それはやっぱり嬉しい。その声が直に聞こえてくるってのは1番いいのかな」

「これからは地元だけじゃなく、日本中をお客様にしないといけない」と山崎さんはいう。

罪悪感のないお菓子を

店を継いで、来年で30年。鰺ヶ沢の街並みもだいぶ変わった。高齢化や後継者不足で商店街も寂しくなった。学校の先生や役人の方がいいと辞めていった人もいる。浮き沈みのある商売はやはり大変だ。

「お菓子屋さんも3、4軒くらいになってしまいました。それも看板は掲げているけど、実際やっているのかわからないようなお店もありますし」

ただ『山ざき』の先行きは決して暗くはない。去年の春、東京の洋菓子屋で修行してきた長男の智大さんが帰ってきた。ゆくゆくは4代目を継いでくれるはずだ。

「まだ和菓子の経験は浅いけど、和菓子は好きだと言っていますしね」と嬉しそう。

そんな山崎さんも60歳の還暦を目前にして健康が気になり出した。最近は素材に目を向けているという。

「例えば、精製された砂糖じゃなく、含蜜糖を使ってみたり。小麦粉を米粉にしてみたり。油脂もオリーブオイルにしたりとか。青森に菊芋を粉末にしてる業者さんがあって、その菊芋に入ってるイヌリンは糖尿病にいいらしいんです。そんな素材もお菓子に使ってみようかなとか」

と語り出せばアイディアは止まらない。レギュラー商品ではないが、そんな素材にこだわったお菓子もすでに商品化している。

「お菓子は甘いものですから、食べ過ぎは体には良くない。常にちょっとした罪悪感がともないますよね。だから罪悪感なく食べられるお菓子を作っていきたいんですよ」

今は地元・鰺ヶ沢のお客さんが中心だが、これからは「そんな素材にこだわった鰺ヶ沢の銘菓を日本中のお客様にも伝えていきたい」という。

それは「若い人ならネットも上手に活用できるだろうし」と次の世代である智大さんに期待している。

「溶けないアイス」として巷で話題のくず餅アイス「くずバー」は、そんな智大さんにすべて任せている。

4代目となる息子の智大さん。任されている「くずバー」は、地元産のフルーツやラムネ、コーヒー牛乳など、常時30種類の味があるという。

「彼なりにいろいろと工夫してきていますね」という成果は出ているようで、不動の1番人気「ケーキ・ド・大福」に次ぐ人気商品に育ってきている。

『山ざき』の厨房はとても明るい。BGMのラジオからは時折山崎さんのリクエストが流れてくるという。

「ラジオネームもいくつもあるんですよ」と嬉しそうに教えてくれるスタッフさんたちに、自然と山崎さんたちも笑顔になる。その様子を90歳になる2代目の妻のエチさんが微笑ましく眺めている。

そんな『山ざき』に定休日はない。大晦日も元旦も年中無休。

「誰かが亡くならない限り休まない。いやそれでも半分シャッターは開けておきます。店が閉まっているのは、せっかくきたお客様に悪いですからね」

今日も明日も明後日も、『山ざき』は本州の北限で鰺ヶ沢名産の菓子を作り続けている。