【第 7 回】

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青森県 西津軽郡鰺ヶ沢町 イトウ焼 銘菓の店 山ざき

幻の魚の洋菓子? 元エンジニアが受け継ぐ名産菓子の物語。 (1/2)

聞き手 小林みちたか

写真 梅原渉

青森市内から西へ車で1時間ほど。北は日本海を臨み、南は世界自然遺産「白神山地」を有する鰺ヶ沢町。

「ブサかわ犬」として映画にもなった秋田犬「わさお」で一躍有名になった町には、もう一つ全国区の名物がある。

本州では絶滅し、幻の魚ともいわれる日本最大の淡水魚「イトウ」の全国でも数少ない養殖地なのだ。

青森県の鰺ヶ沢町では白神山地を水源とした赤石川の清流を利用し、1985年から養殖をはじめている。その味はサケより淡白でクセがなく、川のトロといわれるほどの美味。希少な高級魚ゆえ日本で食べられるのはおそらく鰺ヶ沢だけだ。

そんな鰺ヶ沢に「イトウ」を名乗る菓子がある。

『銘菓の店 山ざき』の「イトウ焼」だ。

パッケージには水面から勢いよく飛び上がるイトウ。まさか魚介系のお菓子?とたじろぎそうになるが、イトウが入っているわけではない。

中身は、ホワイトチョコレートを5ミリほどのアーモンドサブレではさんだフロランタン風の洋菓子。ほんのりと風味があり、甘すぎず、ほどよい歯応えで、思わず2枚目に手が伸びてしまうクセになる味わい。

なぜ「イトウ焼」というネーミングなのだろう。

『銘菓の店・山ざき』の3代目店主・山崎康裕さんはいう。

「鰺ヶ沢でしか作れないお菓子を作っていきたいんです」

世界自然遺産「白神山地」を水源とした赤石川の冷たい清流で育てられる「イトウ」。漫画「釣りキチ三平」にも登場した幻の巨大魚だ。

作った分だけ売れた時代

日本海の鰺ヶ沢湾まで5分。「わさお」の記念像のたつ「海の駅わんど」のすぐ近くに『銘菓の店・山ざき』はある。JR五能線鰺ヶ沢駅から歩いて18分ほどだ。

創業者である山崎粕太郎さんは明治40年、鰺ヶ沢の隣の津軽の木造の生まれ。元は大工になりたかったそうだが、15歳でお菓子づくりの修行に出た。手に職をつけるなら食べ物の方がいいと選んだようだ。

青森駅前のお菓子屋で修行をし、20歳で独立。生まれ育った故郷は田んぼばかりの田舎で商売には不向きだと思い、鯵ヶ沢に目をつけた。

当時の鯵ヶ沢は漁業が盛んだった。加えて港湾整備の拠点でもあり、県の出先機関も多く、通りには商店が並ぶ栄えた町だったという。

「祖父の粕太郎さんが、元々お菓子屋さんだった店舗を居抜きで引き継いだのが、昭和3年頃だったようです」と孫にあたる3代目の山崎さんが教えてくれた。

3代目店主の山崎康裕さん。2代目の父から店を継いで、もうじき30年。

創業した頃の店名は『山崎』と漢字表記だった。あつかうのは饅頭や飴といった昔ながらのお菓子。それとバタークリームを使ったケーキだったり、菓子パンだったり。

「そう美味しいもんじゃなかったですね。ただ昔は砂糖が貴重で、甘いものがない時代だから、作った分だけ売れたみたいですよ」

そう子供の頃の記憶をたどりながら山崎さんは笑う。

コンビニもない時代。当時、町にはお菓子屋さんが20軒はあったそうで、どこのお店も繁盛していた。

ただ、創業者の粕太郎さんの息子、2代目となる山崎敏博さんは、お店を継ぐ気はなかったという。

地元紙の東奥日報に取材された記事。創業当時の鰺ヶ沢には、お菓子屋さんだけで組合ができるほど店があったという。

地域に根ざしたお菓子たち

「商売はやっぱり忙しいんですよ。人が遊んでる時に仕事しなくちゃいけないんで。だから、親父は高校出たら、岩手の大学に行って、事務仕事をしたかったみたいですね」

2代目の敏博さんは、父である初代・粕太郎さんの仕事ぶりを見ながら、そう考えていたという。

ただ、敏博さんは6人兄弟の長男で、わがままを通すわけにもいかなかった。

結局、高校を卒業するとお菓子の修行を経て、店を継いだ。店名を「もっとわかりやすくしたい」と現在の『山ざき』に変更した。

店を継いだ昭和30年代以降も日本は高度経済成長期。景気も上り調子。日本中に甘いものは増えていったが、『山ざき』は繁盛し続けた。

商品自体はさほど多くはなく、仏事に使うお菓子や羊羹や饅頭といった普段使いのお菓子が中心だった。ただ2代目の敏博さんは、それだけでは飽き足りなかったようで、

「親父の頃から、少しずつ地元に根差した商品を開発していきました」

2代目の敏博さんの時代も「疲れて作業台で眠り込んだり、立ったまま居眠りしたこともある」ほど繁盛していたという。

例えば、黒砂糖入りの餅に茶きな粉をまぶした「じんく餅」

地元民謡の鰺ヶ沢甚句に「鰺ヶ沢育ちで色こそ黒いが味は大和の吊るし柿」という歌詞があり、色合いが吊るし柿に似ているということから、そう名付けたそうだ。

藩政時代から伝わる銘菓「浪花せんべい」も、鯵ヶ沢の菓子職人たちに受け継がれてきた逸品だ。

他にも、鰺ヶ沢の地酒をたっぷり使った酒ケーキ「安東水軍」や、北海道の昆布を使った羊羹「浪乃音」も北国らしいお菓子。

そんな鰺ヶ沢ならではの『山ざき』のお菓子たちは、全国菓子博覧会をはじめとしたコンテストでいくつもの賞を受賞している。店内には、まさに所狭しと表彰状が掲げられている。

「あんまり飾るのも嫌なんですけどね」と3代目の山崎さんは恥ずかしそうにいうが、まだまだ賞状はあるというからすごい。

そして「イトウ焼」もまた、数々の賞を受賞する名作なのだ。

山崎さんの妻の寿江さんは福島県の出身。夫とともに長年「山ざき」を支えつづけている。

鰺ヶ沢でしか語れないイトウの物語

「イトウ焼」が生まれたのは、昭和の終わり頃。ある時、2代目の敏博さんがアーモンドサブレでチョコを挟んだフロランタンに似たお菓子を試作した。

「親父とお袋が参加した宴会の席で、イトウのお造りが出てきたそうなんです。試作のお菓子の表面が、ちょっとこのイトウの鱗に似ているんじゃないかって話になって。それでイトウを名前につけたらどうだと」

ちょうど鰺ヶ沢では全国でも数少ないイトウの養殖を開始し、事業を本格化させた頃だった。話題づくりの後押しにもなるだろうし、お菓子もまた話題になればという色気があったかもしれない。そして「イトウ焼」と名付けられた。

商品化するや鰺ヶ沢でしか語れないストーリー性や幻の魚を名乗るインパクトも相まって、すぐに全国菓子大博覧会で賞を受賞するなど、『山ざき』の看板商品の一つとなっていった。

「イトウ焼」は、すべて手で作る。サブレの厚さだけでなく、ホワイトチョコもアーモンドも「ちょうどいい量」が求められる。

「中身はアーモンドと砂糖と卵と小麦粉。風味づけにコーヒーも入っています。ホワイトチョコをサンドするサブレの厚みが特に繊細で。なので、すべて手作業です。手間もお金もかかりますけど、レシピも味もパッケージも親父の頃から大きくは変えていません」

数十種類はある『山ざき』の商品のなかで、「イトウ焼」は40年近くも消えることなく生き残っている。それは単に物珍しさだけではない。「この前買ったら美味しかったから」ともっぱら味に惹かれたリピーターが多いという。

味の良さとお客さんの声。それが、2代目の父同様『山ざき』を継ぐ気のなかった3代目の山崎さんの心を動かした理由でもあるのだろう。

山崎さんは、工業大学出身のエンジニアだった。