【第 6 回】

  1. TOP
  2. 探訪記
  3. 【第 6 回】

滋賀県 蒲生郡日野町 マドモアゼル 洋菓子の店 不二屋

絶品のスポンジで目指す、日野のソウルフード。 (1/2)

聞き手 小林みちたか

写真 梅原渉

いまも戦国時代の古い町並みを多く残す日野町で、異彩を放つ可愛いらしい店舗。

滋賀県東部。中野城の城下町として整えられた日野町は、「三方よし」で有名な近江商人を多数輩出した町としても知られる。

近江鉄道の日野駅から約3キロ。日野町役場から日野商人街道へ向かって5分ほど歩くと、突如、アルプスの麓から切り抜いたような三角屋根に可愛い煙突が突き出た建物があらわれる。

『洋菓子の店 不二屋』

のどかな日野の町で一際目立つ店舗は、スイスやドイツの民家をモデルにしている。その完成度は、ドイツから来た楽団員が「故郷の家にそっくりだ」というほど。

店舗同様、作っている洋菓子もスイスやドイツの影響を受ける。

その1つが、ドイツ生まれの焼き菓子バウムクーヘンから着想を得て生まれた「マドモアゼル」。

いまは亡き先代の森田貞夫さんが考案した「マドモアゼル」。

木の年輪のような断面のバウムクーヘンを平たくできないかと考え、スポンジ生地を15、6層と重ねて、杏のジャムを挟んだお菓子はズッシリと重みのある味わい。

ふんわり柔らかいタイプの多い日本のバウムクーヘンよりも本場ドイツのハードタイプに近い食べ応え。

「うちはとにかくスポンジを食べてほしいというケーキ屋です」と語るのは、亡き夫から『不二屋』を引き継ぐ森田たき子さんだ。

先代の森田貞夫さんの亡き後、店を切り盛りする妻の森田たき子さん。

スイス帰りの洋菓子職人

『不二屋』の創業は、昭和32年(1957年)。たき子さんの義父が京都で修行後、郷里の日野に洋菓子専門店を開業したのがはじまりだ。

和菓子が1個10円に対して、ケーキが1個25円の時代だったが、日野の人々に受け入れられ、町で洋菓子といえば『不二屋』という評判は定着していった。

亡き夫・森田貞夫さんは、小学2年生の頃から配達の手伝いをし始め、4年生になるとクリームでバラの花を絞れるようになっていたという。

「子供の頃から手先が器用で、絵でも工作でも上手だったみたいです」と妻のたき子さん。

お店を見渡せば、貞夫さんが手作りした便利な道具が今もたくさん残っている。手をかけることをいとわない人だったという。

なければ作り、既存の道具も使いやすいように改造していく。先代の貞夫さんは合理的な人だったという。

そんな貞夫さんは高校卒業と同時に神戸の洋菓子メーカーに就職。そこでたき子さんと出会った。

やがて貞夫さんは、本格的な技術の習得に励む中、本場の洋菓子への思いが募っていく。そして23歳の時、会社の留学制度を利用して、スイスのリッチモンド製菓学校に留学した。

学校のあるスイスのルツェルンはドイツ語圏だったこともあり、本場ヨーロッパ、特にドイツ菓子の影響を強く受けたという。

11ヶ月の留学生活で菓子職人としての自信を得て、貞夫さんは帰国。

帰国後まもなく、たき子さんと結婚。創業者である貞夫さんの父が体調を崩していたこともあり、故郷の日野に戻った。

「マドモアゼルは、不二屋で働き出してすぐの頃に作ったと思います。スイスや神戸で似たようなお菓子を見たのかもしれないですけど、とにかく、なんでも自分なりにアレンジする人でした」とたき子さんは当時を懐かしむ。

やがて貞夫さんが『不二屋』を引き継ぎ、神戸やスイスで培った経験を存分に発揮する。

日本における「チーズケーキブーム」は70年代後半から80年代に入ってからと言われているようだが、『不二屋』では、1968年から販売したというから相当早い。

日野の地酒を使った「酒ケーキ」は、全国菓子大博覧会で名誉大賞や栄誉大賞を受賞し、チーズケーキとともに人気商品となった。シュークリームもよく売れた。

「夫はお客様から「こんなふうにできない?」なんてちょっと変わった注文を受けると職人根性に火がついて、私ではとても思いつかないような大胆な発想で応えていました」

一方で、たき子さんの方も「新しい商品をつくるときには、私なりの視点で意見をいって、話し合ったりしていましたね」と夫を支え、

「このあたりでは1番進んだ洋菓子屋だったと思います」と『不二屋』を盛り上げていった。

その後、大手の洋菓子チェーンがやってきたり、競合店ができたりして、一時売り上げが落ちることもあったが、結局、日野の町に洋菓子店は『不二屋』しか残らなかった。

そして1997年、貞夫さんは同じ日野町内に念願の三角屋根の店舗を建てた。

スイスの修行時代に撮影した家の写真を設計士に見せながら、イメージ通りの店舗にしていった。

見栄を張らないのが近江商人の心得だが、新鮮で美しいケーキを売るためには店舗の外観はとても大切だと考えてのことだった。

念願の店舗が完成し、貞夫さんはかなり喜んだそうだ。

個性的な新店舗は日野の町ですぐに話題となり、バブル崩壊後の不景気にも負けず、『不二屋』は大繁盛店となっていった。

子供の頃にお菓子作りを手伝って褒められたことが、貞夫さんのサービス精神の原点なのかもしれない。

離れて気づいた、変わらない味の凄み

子育てをしながらの仕事は大変だったと語るたき子さんとともに現在、厨房に立つ息子の真介さんは、父の貞夫さん同様、子供の頃から店に出入りしていたという。

「親の目も届くので、安心ですから」というたき子さんに対して、「ただ店で放っとかれただけ」と真介さんは笑う。店を継ぐつもりもなく、親の貞夫さんもそのつもりだった。

「夫は教育熱心で、一生懸命勉強してちゃんと休みのとれる安定した職業について欲しかったみたいです。飲食はみんなが休みの日も休めませんしね。うちは親子の思い出も少なかったですから」

そんな親の期待通り、息子の真介さんはお菓子とは遠く離れた人生を歩む。
県外の大学に進学し、勉学に勤しんだ。

息子の森田真介さん。県外にいて姉たちより店を手伝うことは少なかったが、いまや立派な跡継ぎだ。

変わったのは、親の貞夫さんの方だった。

「この店ができた頃から、息子に「ケーキ屋もいいよ」って言い出しましてね」とたき子さんは夫の変心を笑う。

「自分の城ができて、継いでほしいと思うようになったんだと思います。だから息子が戻ってもいいよと言った時は、夫はとても喜んでいましたね」

地元の日野に戻った真介さんが、久しぶりに『不二屋』のチーズケーキを食べてみると小さい頃の印象とまったく変わっていなかったという。

さらにお客さんたちの光景にも驚いた。

「子供の頃にうちのケーキを食べてたお母さんが、自分の子供にも食べさせたいって買って行かはって」

離れていたからこそ、気づけたのかもしれない。

「昔のまんまって、実はすごいことなんじゃないかと思ったんです」