【第 3 回】

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滋賀県 高島市 藤樹せんべい 大阪屋

琵琶湖で100余年。消えかかる秘伝の手作りせんべい。 (1/2)

聞き手 小林みちたか

写真 梅原渉

近江名物「藤樹せんべい」。地元の新鮮なたまごをたっぷりと使った昔ながらの大きな手作りせんべいだ。

日本最大の湖・琵琶湖。その面積は滋賀県の約6分の1だが、県の中央に横たわっているためか、存在感はもっと大きく感じる。
その琵琶湖の湖岸。滋賀県北西部の近江今津駅から歩いて10分ほどの神社の前に、小さなせんべい屋がある。

400万年の歴史を持つ日本最古の湖でもある琵琶湖(左)と3代目に嫁いだお母様。

『藤樹せんべい本舗 大阪屋』

創業は明治28年(1895年)。来年には節目の130年を迎える超のつく老舗だ。
明治、大正、昭和、平成、令和と5つの時代を生き抜いてきた『大阪屋』の店先に並ぶ商品は、たった1つ。
地元高島市が生んだ偉人「中江藤樹(なかえとうじゅ)」の名を冠した「藤樹せんべい」だけ。
直径約16.5センチ。大人の手のひらほどもある大きさは、琵琶湖の雄大さを思わせる。ほどよい歯応えと控えめな甘さがクセになる味。
原材料は、卵、小麦粉、砂糖、水だけ。添加物は一切使用しない。

100年以上にわたって受け継がれてきた秘伝の製法で焼き上げ、大きな琵琶に鎮座する中江藤樹がデザインされた焼印を、今も1枚1枚丁寧に手作業で刻印していく。
長らく近江名物として親しまれてきた「藤樹せんべい」だが、今その長い長い歴史を静かに終えようとしている。

大阪で創業した「湖北堂」。創業者の平尾留吉さんは4人兄弟。明治の頃は長男以外は丁稚奉公に出されることが多かった。

大阪から帰ってきた琵琶湖のせんべい屋

『大阪屋』の創業者である平尾留吉さんは、滋賀県の片田舎で生まれた。地元には何もない。だから仕事を求めて大阪に行った。

ほどなく明治28年11月、大阪市の松屋町(まつやまち)にせんべい屋を構えた。

屋号は『平尾 湖北堂』。郷里が琵琶湖の北側だったことから、そう名付けた。

店を構えた大阪市の松屋町は江戸時代から菓子問屋の町で、明治以降は人形、玩具、紙、文房具などの問屋が集まり、賑わっていたという。『平尾 湖北堂』も繁盛したことだろう。明治42年9月まで14年もの間、商いを続けた。

そして留吉さんは故郷に錦を飾るように、帰郷する。
ただ、生家のある地元はあいかわらず田舎で、せんべい屋などできそうもない。

そんな折、高島の今津にある琵琶湖のすぐそばの神社の目の前に土地が空いているという話を聞く。今津には舟の乗り場があり、神社の前は浜通りの商店街として賑わっていた。

「これはいい」と留吉さんはこの地に店を出すことを決めた。

創業した頃。お店の前には商店が軒を連ねていたが、せんべい屋は「大阪屋」だけだったそうだ。

『湖北堂』は、琵琶湖から離れた大阪だったから名乗る理由もあったが、帰ってきてしまえば、どこも見ようによっては琵琶湖の北側だ。ならば、大都市・大阪からやってきたことをアピールしようと考えた。

そして屋号を『大阪屋』とした。

明治末期から大正へと移り変わる中、日本はどんどん発展していった。『大阪屋』のある浜通りもまた人々で賑わい、お店も大層繁盛したという。

そして大正11年(1922年)、留吉さんは『藤樹せんべい』を生み出した。

地元近江の聖人と称えられる「中江藤樹」の教えを多くの人たちに噛み締めてほしいという思いからだった。

「藤樹せんべい」のパッケージ。50年以上デザインは変わっていない。

近江聖人・中江藤樹の教え

中江藤樹は、江戸時代初期の儒教学者で、日本における陽明学の祖といわれている。1608年に近江国高島郡小川村(現在の滋賀県高島市安曇川町大字小川)に生まれ、独学で学問の研鑽に努めたのち私塾を開く。

人としての大切な道として「致良知(ちりょうち)」を唱えた。
「致良知」とは、「人は誰でも良知という美しい心を持って生まれてくる。それは誰とでも仲良く親しみ合い、尊敬し合い認め合う心」のこと。つまり日頃の醜い欲望に打ちかって良知を鏡のように磨くことが大切だと説いた。

その教えは身分の上下をこえた平等思想で、武士だけでなく農民、商人、職人にまで広く浸透し、熊沢蕃山、大塩平八郎、吉田松陰らにも受け継がれていったという。

居宅の庭に藤の老樹があったことから、「藤樹先生」と呼ばれて慕われ、没後は「近江聖人」と称えられている。

高島市内には記念館や神社があり、今も地元の小学校では藤樹先生の教えを学び伝えているそうだ。

当時の近江(特に高島市)の人たちにとって藤樹先生は、琵琶湖以上の存在だったのかもしれない。『大阪屋』の創業者である留吉さんは、自宅の庭に藤樹先生の銅像を作るほど、その存在を敬っていた。

「藤樹せんべい」が売り出した頃は、藤樹先生の名を冠した食べ物はかなり珍しかったようで、近江の名物として、お土産に買う人も多く、また地元の人たちもたくさん買ってくれたという。

「大阪屋」の店先にある中江藤樹像。地元では今でも小学生になると記念館や神社を訪れ、その功績や教えを学ぶ。

猛スピードで変わる町

昭和9年(1934年)、『大阪屋』は初代留吉さんの息子である藤太郎さんが2代目となり、和菓子の製造にも乗り出した。

藤太郎さんの「藤」は、もちろん藤樹先生の「藤」だ。

そして昭和32年(1957年)、3代目となる平尾慶三さんが店を継いだ。

慶三さんは三男。実は長男、次男までは、これまで通り名前に「藤」の字を入れていた。ただ、次男が若くして亡くなったことで、「藤」の字をやめようとなり、琵琶湖の中に大鳥居があることで有名な白髭神社で「慶」の字をもらい、慶三と名付けられた。

その慶三さんは、精力的に事業を展開する。

『大阪屋』のせんべいに欠かせないのが、1枚1枚手作業で焼き付けていく「焼印」だ。
今も『大阪屋』には、文字や動物、果ては戦車まで、大小さまざまな焼印が残っている。それだけ多種多様な商品を企画し、作ってきたのだろう。

「大阪屋」に残っている焼印。そのいくつかはホームページで紹介されている。

慶三さんは店を継ぐや、「ふるさとの味せんべい」「銘菓琵琶湖めぐり」「びわこせんべい」などなど新商品を次々と開発した。
もちろん慶三さんに「藤」の字がついていなくとも、「藤樹せんべい」は『大阪屋』の看板商品でありつづけた。

「藤樹せんべい」のパッケージには、こんな名文句が書いてある。

昔は名物に「ウマイ」ものなし
今は名物に「マヅイ」ものなし

大正生まれの「藤樹せんべい」は、単に古いだけが売りの商品ではない、味にだってこだわっているのだという慶三さんの強い思いの表れだろう。

その証拠に全国菓子大博覧会で金賞を何度も受賞するなど、「藤樹せんべい」をはじめ『大阪屋』の味は一級品だった。

そんな慶三さんの時代の『大阪屋』もまた、かなり繁盛していたという。

慶三さんの娘さんは当時を思い出して語ってくれた。

「私が子供の頃はお店の前の道が国道やったんです。狭い道やのにまだトラックとかバンバン走ってましてね。ここは浜通りの商店街で縦の通りもまた別の商店街があったんですよ。夏祭りとかもやってはって、どこも賑わってましたね」

しかし時代は猛スピードで変わっていった。

あたらしく大きな道ができ、そちらが国道になった。

大きな道の方に、大きな駅ができた。その周りに商店街ができた。

『大阪屋』の前の浜通りから、お店も人も減っていった。

「新しい土地へ移ろうか」という話が『大阪屋』でもあがった。時代の流れに乗ろうと思ったのだ。

でも、やめた。

移転する代わりに、だいぶくたびれてきていたお店を新しくすることにした。

やがて町に大型スーパーがやってきた。

「それで完全に人の流れが変わりましたね。その前に移転していったお店も軒並み潰れていきました。今思うと動かん方がよかったですね」と娘さんは笑う。

『大阪屋』は100年以上もずっと同じ場所にいつづけた。そのおかげで地元のお客さんたちも変わらずに通いつづけてくれたという。

ただ、それでも『大阪屋』を取り巻く環境は大きく変わった。

「昔は琵琶湖を訪れる観光客の人たちもよくきてくれましたけど、今はもう全然。観光バスもスケジュールがびっしりで、街歩きみたいな時間もないし。ここまで来る人はぐっと減りました」

そして何より大きく変わったのは、3代目の慶三さんがいないことだ。

10年ほど前、慶三さんは突然、病に倒れてしまった。