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大分県 玖珠郡 玖珠町

山あいの町で、名前を直さず愛されてきた焼き菓子 (1/2)

ラングレシャー 藤原吉福堂

聞き手 丹羽亮一朗

写真 梅原渉

大分県の西部に位置し、四方を山々に囲まれた玖珠(くす)の町。

町の中心駅である豊後森(ぶんごもり)駅には、かつて蒸気機関車(SL)の機関庫が置かれ、最盛期には25両もの機関車を擁していた。

福岡県久留米市と大分県大分市を結ぶ「久大本線」が全線開通したのは、1934年(昭和9年)のこと。 SLが全盛を迎えた時代、豊後森駅は1日に5,000人以上もの人々が行き交い、周辺には多くの国鉄職員とその家族が移り住んだという。駅前には絶え間ない人の往来が生まれ、通りには新しい店が次々と立ち並んでいった。

そんな町の歴史の幕開け、そして線路がすべて繋がった記念すべき「昭和9年」と同じ年。駅から歩いて5分ほどの場所に、一軒の菓子店が産声を上げる。

「藤原吉福堂」

玖珠町出身の藤原吉人さんは、隣町の日田にある小さな菓子店で修行を重ねたのち、生まれ故郷に自身の店を開いた。

当時はまだ駅周辺に菓子店がなく、これからはじまる町の賑わいと、人々の憩いの場になる予感を、その胸に抱いていたのかもしれない。

鉄道がもたらす人の往来とともに栄えた春日町商店街に藤原吉福堂は店を構える。

創業当時は、蒸し饅頭や米飴といった素朴な和菓子で旅人や職人たちの疲れを癒やしていたが、時代の移り変わりとともに、店にはモダンな洋菓子も並ぶようになっていく。

1970年代に生まれた「アップルケーキ」や「ホワイトケーキ」といったオリジナルの焼き菓子は、半世紀が経った今でも店頭に並ぶロングセラーだ。

そしてもうひとつ、藤原吉福堂には、少し不思議な名前の焼き菓子がある。

『ラングレシャー』

ラングドシャ、ではない。

「ラングレシャー」なのだ。

卵白を使った焼き菓子といえば、フランス菓子のラングドシャを思い浮かべる人も多いだろう。けれど、藤原吉福堂のこの菓子は、発売以来ずっと「ラングレシャー」という名前で売られている。

その響きには、どこか少しだけ引っかかりがある。

けれどその引っかかりこそが、この菓子の魅力になっている。

店内でひときわ目を引くラングレシャーの青い袋。窓からは丸型の素朴なクッキーが覗く。

“もったいない”が、菓子になるまで。

ラングレシャーのパッケージは、遠くからでも目に入る。

鮮やかなブルーを基調にした袋の中央には、ゴールドの筆記体で「Rangureshiya」と記されている。

サイズは15センチ四方ほど。中には直径5センチほどのクッキーが、100グラム分たっぷりと入っている。

袋を開け、クッキーを一枚ずつ手に取ってみる。

大きさ、厚み、焼き色。どれも少しずつ違っている。整いすぎていないところに、手で作られた菓子の表情がある。

ひとつ摘んで食べてみる。

サクサクとしている。けれど、軽すぎない。甘さは穏やかで、後味がやさしい。

藤原吉福堂では、週に2回ほどラングレシャーを焼いている。

ただし、はっきりとした製造日が決まっているわけではない。他の菓子作りで余った卵白がたまったところで作るからだ。

シュークリームのカスタードクリームなど、卵黄だけを使う菓子を作ると、卵白が残る。

以前は、その卵白を捨てることが当たり前だった。

けれど、2代目の藤原高治さんは、それをもったいないと思った。

藤原吉福堂のラングレシャーが生まれたのは、今から40年から50年ほど前のこと。

考案したのは、創業者である吉人さんから店を継いだ高治さんだった。

藤原吉福堂の3代目・藤原史幸さん。「ラングレシャーは、手頃で気軽に食べられるところがいいんじゃないかな」と話す。

現在82歳の高治さんは、すでに第一線を退いている。だが数年前までは現役で、店の焼き菓子と和菓子を担当していた。

東京の日本菓子専門学校で学び、20歳で店に入った高治さんは、50年以上にわたって藤原吉福堂の製造を担ってきた。

ラングレシャーを作ろうと思った理由は、とても明快だった。

卵白を捨てるのが、もったいなかった。

その一心で、高治さんは菓子の専門書を開いた。参考にしたのは、ラングドシャのレシピだった。

最初からうまくいったわけではない。

配合が定まらず、生地がダレる。焼くとペチャっと広がる。色が黒っぽくなる。

試作は半年ほど続いた。

やがて、今とほとんど変わらない形にたどり着く。

菓子作りの出発点は、華やかな発想ではなかった。

余った卵白を捨てたくない。

その節約の心が、いつのまにか店の名物を生んでいた。

箱菓子のコーナーには、長い年月をかけて定番となったこの店ならではの創作菓子が揃う。

パッケージに残った、ひとつの聞き間違い。

ラングレシャーの生地作りに使われているミキサーは、昭和42年製だという。

絞り袋に移された生地は、1枚ずつ手作業で天板に絞り出される。それをオーブンで焼き上げる。

生地の厚みも、焼き色も、わずかに揺れる。

大量生産の焼き菓子にはない、少し不揃いな気配。その揺れが、ラングレシャーの口当たりにもつながっている。

新商品の発売にあたり、高治さんは付き合いのあった大分市の印刷会社に、パッケージのデザインと印刷を依頼した。

デザインについて、高治さんから細かな注文を出すことはなかった。すべて印刷所に任せていた。

参考にした菓子は、ラングドシャ。

だから商品名も、ラングドシャ。

高治さんは、そう伝えたつもりだった。

ところが、後日納品されたパッケージの中央には、こう記されていた。

「Rangureshiya」

ラングドシャではなく、ラングレシャー。

最初は気にせず使っていたが、しばらくして高治さんは間違いに気づいた。

普通なら、すぐ印刷所に電話をして、修正を依頼するところかもしれない。

けれど、高治さんはそうしなかった。

「これでいいや」

そのまま、ラングレシャーと書かれたパッケージを使い続けることにした。

間違いを正すよりも、受け入れる。

そこには、いい加減さとは少し違う、店の器のようなものがある。

何もかもをきっちり整えようとしない。少し違っていても、まあいい。使えるなら使う。おいしければ、それでいい。

そういう感覚が、ラングレシャーという名前には残っている。

販売当時、ラングレシャーは100グラム入りで277円ほど。この気前のよさも、長く親しまれてきた理由のひとつだろう。

それから40年近くが過ぎた。

その間、商品名について外から問い合わせを受けたことは、一度もなかったという。

「普通はラングドシャという名前だが、お宅のところはどうしてラングレシャーなのか?」

そんな問い合わせがあったのは、ごく最近になってからのことだった。

長いあいだ、誰も気にしなかった。

あるいは、気にしても、それでよかったのかもしれない。

藤原吉福堂のラングレシャーは、ラングドシャに似た菓子でありながら、ラングドシャではない。

名前を間違えたまま、店の菓子になった。

そして、その名前のまま、町の人に食べられてきた。

祝い事に、法事に、季節の行事に。玖珠の人々は折々にこの店の菓子を求めてきた。

夜更けに包んだ、町の引き菓子。

「僕が子どもの頃からこれだったんですよね」

藤原吉福堂の3代目・藤原史幸さんは、パッケージを見つめながら、そう呟いた。

現在52歳の史幸さんは、がっしりとした体つきが印象に残る。高校から社会人にかけて、ラグビーに打ち込んでいたそうだ。

史幸さんの幼い頃の記憶には、店の仕事をする両親の姿がある。

とくに思い出すのは、引き菓子を包む姿だという。

「今はもう無くなってきたんですけど、通夜の参列者に引き菓子を配る風習があったんですよ。それで人が亡くなったときは、引き菓子の依頼がある」

夜に突然、電話が鳴ることもあった。

両親は、一日の仕事を終えたあとも、箱詰めや包装に取りかかった。史幸さん自身も、それを手伝うことがあったという。

通夜、法事、地元の結婚式。

町で行われる行事のそばには、菓子店の仕事があった。

人が集まるところに、菓子がある。

喜びの場にも、別れの場にも、菓子は添えられていた。

それは、菓子店が町の暮らしと密接につながっていた時代の記憶でもある。

当時、店の前の通りは、今よりも道幅が狭かった。

車よりも人の往来が中心で、人形屋、靴屋、クリーニング屋など、個人商店が並んでいた。

商店街らしい匂いが、まだ濃く残っていた。

「とりあえず、活気があった」

史幸さんは、そう振り返る。

歩いて買い物をするのが当たり前だった時代、この通りにはいつも人の姿があった。

その頃の藤原吉福堂は、配達も忙しかった。

配達先のほとんどは玖珠町内。1,000円や2,000円ほどの少額の注文でも、頼まれればバイクや車に乗り、高治さんは菓子を届けて回った。

「田舎はやっぱりそのくらいのサービスをせんと」

高治さんには、そんな思いがあったようだ。

町の菓子店とは、ただ菓子を売る場所ではなかった。

人の用事に応える。
頼まれたら届ける。
急な依頼にも、できるだけ間に合わせる。

そうやって店は、町の暮らしの中に入り込んでいた。

ある町長選挙の折、選挙事務所から紅白饅頭の注文が入った。

高治さんが饅頭を持って事務所に向かうと、先方は「注文していない」と言う。

いたずらだったのか。相手陣営の嫌がらせだったのか。

がっくり肩を落とす高治さんを見て、先方も不憫に思ったのだろう。

「気の毒や」

そう言って、紅白饅頭を半分買い取ってくれることになった。

「あれは苦い体験でした」

高治さんは、そう言って笑う。

苦い体験も、時間が経つと店の話になる。

町の中で商いを続けるということは、そういう出来事をひとつずつ抱えていくことでもある。