佐賀県 伊万里市
伊万里とイタリアをつなぐ、唯一無二の葡萄スイーツ (2/2)
エトワール・ホリエ
聞き手 小林みちたか
写真 梅原渉
3代目の茂男さんのお菓子作りは、ほぼ独学という。
「何事も、お菓子作りに活かせないかと考える人。旅先でもちょっとでも気になるデザインがあれば、ナプキンでも紙袋でも持ち帰ってきていました。とにかく好奇心旺盛な人でした」
日々、商品開発に試行錯誤する中で、ある時、面白いものができた。
干し葡萄を使ったジャム状の餡。
すぐには商品に活かすことはなかったが、「これは使える」と茂男さんの中で、ピンとくるものがあった。
「義父は多趣味で、とことんこだわる人。グッピーを飼うからって大きな水槽を買ってきたこともありましたよ」とあさ子さんは笑う。
そして、とある出会いから、新たなお菓子が生まれる。
「この本店から車で5分くらいのところにカトリック幼稚園があるんです。そこにイタリア人の神父さんがいらっしゃいました」
『エトワール・ホリエ』は、当時からアップルパイやタルトなど伊万里でいち早く洋菓子を作っていた。ひょっとしたらその神父さんは、故郷の懐かしい味を求めて、お客様としてお店にきていたのかも知れない。
いつしか、茂男さんと神父さんは、互いの家を行き来するような仲に。
ふとした2人の会話の中で、イタリアの郷土菓子の話になった。そこからアイディアがどんどん広がっていった。
「詳細は分かりませんが、どうやら以前作った干し葡萄を使ったジャム状の餡が話題になって、それを使って、日本人向けにアレンジした日本風のお菓子を作ろうとなったようです」
そこから生まれたのが、刻んだ干し葡萄を使ったジャム状の餡を、ココナッツとスライスアーモンドをトッピングしたサブレ生地でサンドした「ウーバ」だ。
あさ子さんは堀江家に嫁いで来たばかりの頃、イタリア人神父さんのいる幼稚園にクリスマスケーキを毎年届けに行っていたという。
「ウーバ」は,手作りで量産はできない。だからメイン商品にはなり得ない。ショーケースの端の方でひっそりとあるお菓子だった。
それでも、甘酸っぱさのあるジャム状の餡は、一般的な白餡や小豆餡とは異なる独特な味わいがあり、「このウーバが大好き」と言ってくださるお客様が途絶えることはなかった。
「50年以上経ちますが、売れないね、もうやめようね、とはなりません。ずっと売れているお菓子ですね」とあさ子さん。
ある意味で、簡単には真似できない独特の手の込んだ和洋菓子を作り続けてきた茂男さんらしい、つまり『エトワール・ホリエ』らしい、お菓子と言えるのかも知れない。
「ウーバ」とは、イタリア語でブドウのこと。
名付けたのは、イタリアからやってきた、その神父さんだ。
茂男さんと神父さんとの出会いから生まれたドルチェ・イタリアーノ「ウーバ」。その絆は半世紀以上経ても色褪せることなく、今も大切に受け継がれている。
素敵なユニフォームに身を包む『エトワール・ホリエ』のスタッフさん。5代目を継いだあさ子さんのアイディアで、デザインを一新したそうだ。
歴史を作る者、跡を継ぐ者
「ウーバ」が生まれた昭和45年頃、茂男さんは店名を『ホリエ菓子店』から現在の『エトワール・ホリエ』とした。
「フランスにあるエトワール広場のように、たくさんの人が集まる場所になればという思いが込められています」
エトワール広場(現:シャルル・ド・ゴール広場)は、フランス・パリのシャンゼリゼ通りにある、エトワール凱旋門がそびえる円形のロータリー広場のこと。12本の通りが放射状に延びる星(エトワール)のような形から名付けられたパリを代表する観光名所だ。
昭和50年には、本店を現在の場所へ移転し、エトワール広場のように、さらにたくさんのお客様を迎えられるよう、スペースも倍ほどへと拡大した。
その頃、4代目となる利治さんがお店に加わった。
「3代目の義父は独学ですが、主に和菓子を学んでいました。逆に4代目の夫は、洋菓子を中心に勉強してきていました。この頃から、洋菓子にもさらに力を入れていきましたね」
親子ゆえにぶつかることもあったが、二人は車の両輪のようにバランスが取れていたという。
高度経済成長を遂げた日本が、バブル経済へと駆け上がっていく時代。世の中は好景気に湧き上がっていた。
そんな中、『エトワール・ホリエ』はいたずらに事業を拡大することなく、愚直に店舗営業だけを続けていった。
「製造を見た方は、ここまでこだわっているのかって、みんな驚きます。でも、その手間をかけたおかげで、ほかにはないお菓子ができた。たくさんのお客様が、わざわざ伊万里のこのお店まで買いに来てくださいましたね」
伊万里を多くの人へ伝えたいと、伊万里の誇りをお菓子に込めた3代目の茂男さん。その思いは、しっかりとお客様に届いていった。
フランスのエトワール広場のようにという茂男さんの願い通り、最近は地元のお客様に加えて、海外からもたくさんのお客様がお店にやってくるという。
やがて,2004年に3代目の茂男さんが亡くなる。
あさ子さんは、「義父はすごい人でした」と懐古する。
アイディアも才能もあった。センスも良かった。知識の深さも到底及ばない。そして何よりチャレンジするエネルギーがすごかった。
お菓子を入れる箱を伊万里焼で作った「陶箱(とうばこ)」を作ったりもした。
「日本の伊万里、世界の伊万里と銘打って、かなり贅沢なものでした。お値段もそれなりでしたから、そんなに売れるものではありません。でも、いくらコストがかかってもやりたいことをやる。それが義父でした」
本店に飾られている大きな砂糖菓子の伊万里焼の壺を作ったのも3代目の茂男さんだ。
「でも、思うんです。義父が思い切りやりたいことをやれたのは、裏で支えていた夫がいたからだって」
一番身近で二人を見ていたあさ子さんだからこそ、わかるのだろう。
「跡を継ぐ夫がいたからこそ、義父も好きなことができた。そんな気がしますね」
3代目・茂男さん渾身の伊万里焼の「陶箱(とうばこ)」。デザインもさまざまあり、中に入れるお菓子も和風、洋風と特別に作るほどのこだわりだった。
伊万里の文化を次の世代へ
3代目の父同様、4代目の利治さんもまた、伊万里の誇りをお菓子に込めていった。
パッケージに陶磁器をヨーロッパへと運んだ南蛮船の航路を描いた「陶磁の道」、陶都・伊万里有田にある独特な塀、トンバイ塀をお菓子で再現した「トンバイ有田」、古きよき・新しきよき伊万里をコンセプトにして作った「伊万里ルネッサンス」と現在も店頭に並ぶ人気商品たちだ。
しかし、4代目の利治さんに代替わりした後の日本は、バブル経済も弾け、長い不況。さらなる成長を目指して大きくなるよりも、頑張って耐え忍ぶ、そんな時代だった。
そして、4代目の利治さんは、2017年に病により他界。天才肌の父を支え、苦しい時代にお店の伝統を守り抜いた4代目だった。
「夫は有難いことに、私が困らないよう環境を整えてくれていました。それでも気落ちしていた私を助けてくださったのは、義父や夫と縁のあった方々です。昔からの従業員たちも誰一人離れずにいてくれました。本当に感謝しています」
お店の外観にひっそりとある4代目「堀江利治」の印。お店を継いだ5代目のあさ子さんが、「夫とともに」という思いを込めて印したという。
3代目、4代目と違い、作り手ではなかった5代目のあさ子さんを周りの人たちが支えてくれた。
「伊万里焼饅頭」に「伊万里茶」を取り入れた「伊万里焼饅頭・緑茶」、外務大臣賞を受賞した繊細で鮮やかな図柄を焼き付けた「オールド・イマリ」、名窯「畑萬陶苑(はたまんとうえん)」の器に入った「伊万里焼Wスイーツ」といった新たなお菓子も生まれている。
看板商品の「伊万里焼饅頭」をはじめとした伊万里ゆかりのお菓子たち。
神父さんとの絆から生まれた『エトワール・ホリエ』らしい和洋折衷を体現する「ウーバ」。
120年を超える歴史から生まれてきた、そんなお菓子たちを見つめながら5代目のあさ子さんは言う。
「思い入れの強いお菓子たちは、大袈裟かも知れませんが、もう伊万里の文化の1つになっていると思っています。連綿と受け継がれてきたご縁が繋がって今がある。だからこそ、このお菓子たちをなくすことは絶対にしていけない。そう強く思っています」