広島県 呉市
選び抜いた銘水でつくる、お坊さんのロングセラーケーキ。 (1/2)
ブランデーケーキ 御菓子司 幸野屋
聞き手 小林みちたか
写真 梅原渉
広島県南西部、瀬戸内海に面する呉市は、かつて世界最大の戦艦・大和を製造するなど、東洋一の軍港としてその名を轟かせていた。
当時の呉には、天皇家の宮様や海軍の士官が利用する高級菓子店があったという。
時は流れ、その多くは姿を消していったが、今もひっそりと残っている菓子屋がある。
呉駅から徒歩で15分ほどの繁華街に建つ『御菓子司 幸野屋(こうのや)』。
戦争で街が焼け野原になっても、店を再建し、今もお菓子を作り続けている。
使う材料は、100%安心・安全を謳い、全国各地から厳選したものばかり。
肝となる”水”は、わざわざ山奥に汲みにいくというほどの徹底ぶり。
添加物や保存料も一切なし。
余計なものが入っていないから、どのお菓子も、驚くほど、澄んだ味わいになる。
その筆頭が看板商品である「ブランデーケーキ」。
口に入れると、ジュウと音を立てて溶けていくような口当たりのよさと上品な甘さに驚く。60年以上、不動の人気を誇る『幸野屋』のロングセラーだ。
素材選びからお菓子作りまですべてを手がける店主は、創業者の祖父から数えて3代目となる小林昌幸さん。
なんと小林さん。空手の師範であり、プロのサーファーであり、師家(しけ)でもある偉いお坊さんという、なんとも不思議なお菓子屋さんなのだ。
※師家とは、主に禅宗において、修行僧を指導する資格と力量を持つ高僧を指す尊称。老師とも呼ばれる。
『幸野屋』のロングセラー「ブランデーケーキ」。香り高い深みのある大人の味わいが人気の洋酒ケーキ。
菓子屋に流れる豪傑の血
『幸野屋』の歴史は、大正3年頃(1914年)にはじまる。
創業者である小林久吉さんは、呉より少し東にいった農家を束ねる庄屋さんの生まれ。『幸野屋』とは、その庄屋の屋号から取ったものだ。
家業は長男が継ぐことになり、久吉さんは呉の和菓子屋で修行をすることに。
当時の呉は、海軍のまちとして発展し、全国的にも有数の大都市となっていた。多くの若者が一旗上げようと呉に集まってきたが、夢破れる人たちも多かった。
久吉さんは、食べ物の商売なら食いっぱぐれることはないだろうと考えたようだ。
その狙いはピタリと当たる。
ほどなく『幸野屋』は、宮家や海軍のお偉いさんを相手にする高級菓子店の一つとなった。
一方、その頃は日本が世界的な紛争に巻き込まれていった時代。
「祖父はマイナス50度にもなるシベリアに出征しても、3食付きで最高だったと笑い飛ばす人でした」と孫の小林さん。
この規格外の豪傑の血は、小林家三代に受け継がれていく。
創業者の小林久吉さんは、20歳の頃に『幸野屋』を開いた。当時は呉のまちにも、和菓子屋さんがたくさんあったそうだ。
やがて太平洋戦争が勃発。久吉さんの息子である2代目の久登さんは、家族を守るためにと「特攻隊」に志願した。つまり戦闘機で敵艦に体当たりする玉砕覚悟の部隊だ。
出撃することはなく終戦を迎えたが、そんな父に育てられた3代目の小林さんの幼少期もまた凄まじい。
柔道に乗馬に潜水にヨットなどなど、子どもらしからぬ習い事は、すべて戦時に備えて身につけろという父の教えだったという。
「山では馬しか使えない。上陸するには海の技術も必要だというわけです。ちょっとでもシュンとした顔をすれば、そんなことじゃ戦争から生きて帰れんぞと怒鳴られる。小学生には厳しすぎますよね」
そう小林さんは笑いつつも、ただ理不尽さは感じていなかった。どこかでその通りだなと思っていたそうだ。
とにかく厳しい父だったが、その父もまた2代目として厳しい現実の前で、もがき続けていた。
創業者の祖父から数えて3代目となる『幸野屋』の小林昌幸さん。禅、空手、サーフィンといくつもの道を極めた人生経験から発せられる言葉は、一つ一つに重みがある。
焼け野原からの再起
戦争で焼け野原となった呉のまちで、2代目の久登さんは、『幸野屋』を再建するために、昼も夜も働きづめだった。
「パン屋をやったり、進駐軍の経理をやったり。土方や鳶のような力仕事もずいぶんやったようです」
そして、終戦から3年ほどで『幸野屋』を再建。自身がつくる和菓子に加えて、洋菓子職人を雇い、和洋菓子屋として、再起を果たしていく。
両親共に朝5時から夜2時まで働いていたというから、いつ寝ていたのか。ただ、その甲斐あって、『幸野屋』は繁盛していく。
『幸野屋』の2階にある工場。この広いスペースが、以前はレストランだった。
さらに、再建から二十数年後には、店舗を5階建てのビルに建て替えた。1、2階の正面は全面ガラス張り。そのガラス越しには、ハリウッド映画に出てきそうな2階へ上がるおしゃれな階段。
「よく見物の人が来てましたね」というデザインは、父の久登さんによるものだった。久登さんは、戦争がなければ美大に行きたかったというほど、芸術的なセンスが抜群だった。
1階は引き続き御菓子司の『幸野屋』だったが、2階はレストランにした。
「TEA&SNACK フリャン コーノヤ」
Friand(フリャン)とは、フランス語で大好きという意味。
「父がチーフコックも務めて、スタッフも雇った」という料理は評判になり、お店は大繁盛。
70坪のフロアには座席が100席もあるのに、行列は階段の上から店の外まで続いた。
もちろん菓子屋も同様で繁盛し、お祭りとなれば、1日で1万個以上もお菓子が売れた。
2代目の父の久登さんは、菓子作りだけでなく、経営者としての才覚にも長けていた。
そんな父からマンツーマンでお菓子作りを学んだ小林さんだったが、父からは「別に継がんでもいいぞ」と言われていたという。
2代目の久登さんによる全面ガラス張りの店舗のデザイン画。「あと彫刻も好きでしたね。お店のマッチのイラストは、親父がお袋さんにプレゼントした手作りの木彫りのブローチのデザインなんですよ」
和菓子の源流と出会う
大学時代に空手をはじめた小林さんは瞬く間に上達し、学生時代に道場を3つも作るほどの腕前になった。
大学卒業後に『幸野屋』で働き始めてからも、空手の師範としての仕事は増えるばかり。
「地元の高校ばかりでなく、四国や九州、関西まで、1週間に8日ぐらい教えにいっていましたね」と笑う。
父同様に、小林さんもまた、寝る間もないほど忙しい日々を送っていた。
空手で鍛え抜かれた小林さんの分厚い手。この手で、繊細な菓子を生み出している。「格闘技をやったおかげで、体の使い方は、お菓子にも通じます。かなり近いものがありますね」
30歳の頃には自分をさらに鍛えようと、坐禅を始める。そこで出会ったのが、坐禅を核心的な修行とする禅宗だった。
奇しくも、禅宗は和菓子に大きな影響を与えたとされている仏教の一派。
その昔、禅宗には食事の間にお茶とお茶請けを摂る習慣があり、このお茶請けが和菓子の源流の一つとなったといわれる。
お菓子屋の跡継ぎだった小林さんが、和菓子の祖とも言える禅宗に出会ったのもどこか必然にも思える。
多くの弟子を抱える空手に加え、禅僧としての修行にも励むようになった小林さんの姿に、父は「菓子屋にしておくには惜しい」と考えたのかもしれない。
ただ、元来、小林さんには無私の心があったのか、空手家や禅僧として、生計を立てようとは思えなかった。
「好きでやっていることで人様からお金をいただくというのがどうにも気が進みませんでした」
師範や師家になった今に至るまで、最低限の月謝や好意の謝礼をいただくことはあっても、ビジネスとして取り組むことはなかった。
そして、父の久登さんが亡くなった2001年。小林さんは『幸野屋』の3代目となった。