愛媛県 今治市
溶けるような白あんに込められた、100年の愛とロマン。 (2/2)
モア モアヤマダ
聞き手 小林みちたか
写真 梅原渉
転機が訪れたのは1980年頃。創業者の一海さんが亡くなり、和菓子を終えて、洋菓子一本になった。
隆靖さんはお店を鉄筋の新店舗に建て替え、店名を『モア ヤマダ』に改めた。ロゴのまわりには可愛らしい天使のイラスト。隆靖さんの発案だった。
「画家の東郷青児が大好きで、あのやさしい女性の感じで描いてほしいってお願いしたんです」と令子さんは微笑む。
そして『モア ヤマダ』となった店内には、喫茶スペースを併設した。
人気のモーニングセット。ランチは、港町カレーライスと日替わり定食が人気だが、他にも焼肉からハンバーグ、エビフライに鰻丼などなど幅広いメニューが食べられる。すべて令子さんが作っているというから驚きだ。
「主人は学生時代の東京で、喫茶スペースのあるお菓子屋さんでアルバイトをしていたんです。そこはものすごく活気があって、すごいなって感じたそうです。当時はお菓子屋になるつもりはなかったけど、いざ自分がなった時に、あの東京時代のお店のイメージがあったんだと思いますね」
当時の今治には喫茶と洋菓子屋を兼ねたお店はなく、またたく間に大盛況に。昼には行列ができるほど繁盛した。大変だったのは、妻の令子さんだった。
「喫茶の“き”の字も知らんかったのに、ご飯作って、喫茶もやって。ほんとうにどうしよ、どうしたらええんって。でも悩む暇がないくらい次々注文が来て、もう無我夢中でした」
そう笑う令子さんは、厨房でランチを作り、3人の子育てと仕事に追われる毎日を必死にこなした。
お客が増えるにつれ、お菓子の売れ行きも変わった。
美味しそうな焼き色のついた「モア」。どんなに売れなくても、「モア」の味を信じ続けた隆靖さんの信念が実った。
「入口を2つ作ったんです。喫茶の方とケーキのショーケースの方に。これも主人のアイデア。喫茶に入る前に、隅っこにあったお菓子に目がいくようにって。それで『モア』も少しずつ知られていきました」
味には自信があった。食べてもらえれば売れるはず。だから売れなくても、作り続けていたのだ。
スティック状で手軽に食べられる「モア」の評判は、口コミで広まり、ついに『モア ヤマダ』の看板菓子へと育っていった。
「やっぱり人が入ってこんと、何も売れないじゃないですか。それがいまだに売れ続けているっていうのは、ありがたいですよね」
ショーケースの奥にも出入口をつくった。これなら喫茶のお客様にも、洋菓子を全部眺めてもらえる。隆靖さんのすばらしいアイデア。
ロマンと商才、そして別れ
元は家業を継ぐ気のなかった隆靖さんだったが、持ち前の商才と行動力で店を大きく育てた。
その根底には、「高校のときの挫折が大きかったんやないかな」と令子さんは語る。
隆靖さんは、野球少年で、中学時代はエースピッチャー。後に阪神タイガースでプロになった金子哲夫さんに憧れて、金子さんのいた愛媛の西条高校に入学する。
しかし、大怪我を負ってしまう。半年間練習することができなくなってしまった。3年間しかない高校野球の半年間は大きい。もう野球は辞める。そう思ったが、父の一海さんから「辞めたらいかん、最後までせえぇ」と叱咤され、なんとか最後まで野球を続けた。
ただ怪我の影響は大きく、西条高校が夏の甲子園で優勝という最大の栄誉の瞬間をベンチの外から眺めるしかなかった。そのくやしさは半端ではなかっただろう。
「やっぱり、そのときに根性も叩かれて鍛えられたんかなって。頑張るっていう姿勢をね。それでやってこれたんじゃないかなって思います」と令子さん。
喫茶で働く令子さん。夕方からは、職人やアルバイトのスタッフも帰り、一人で店を切り盛りする。
そんな強い心で50年近くも走り続けてきた隆靖さんだったが、2010年を過ぎた頃、咽頭がんを患う。手術をしたものの、大腸に転移してしまう。
「あっという間でした。お店のことをどうしたいとかもなくね。もう仕事したなかったのかな」と令子さんは小さく笑う。
そして隆靖さんは、大晦日に亡くなった。
「その日も店は開けてました。次の日はお正月。正月いうたら親戚中が集まるから、お誕生日会用のデコレーションケーキとか、注文がたくさん入ってるんですよ」
モンブランやタルト、チーズケーキ、ブリュレ、さらにはプリンやシュークリームと、オーソドックスながら商品の種類はかなり幅広い。
だから、「仕事に追われて全然涙も出いやしなかった」というくらい忙しかった。
でも、それでよかったのかもしれない。悲しみに暮れずにすむ。その間だけは仕事が悲しみを紛らしてくれたはずだ。
「なんでこんなに忙しくせなって思いますもん。主人のことも可哀想やった。見てやれんかったしね。子どもたちも遊びに連れてったりもできんかったし。なんていう嫁やろ、なんていう母親やろってね。今になってみると、悔やむね。いや、ほんまに……」
令子さんはそういうが、親の思いはきっと子に伝わる。その証拠に、長男の修作さんは奥様と『モア ヤマダ』の2階でイタリアンレストランを営みながら、令子さんをしっかりと支えている。
『モア ヤマダ』の2階にある赤いひさしテントのお店は、息子さん夫婦が営むトラットリア『アルベーロ』。数多くの有名人がお忍びで訪れる今治の隠れ家的人気店。
「モア」に込めた想い
「お菓子が1個、5円、10円の時代に、子ども5人を大学に、東京にやったんだから、お父さん(一海さん)は、すごい人やなって思います」と令子さん。
明治生まれの職人肌だった創業者の一海さんと違い、息子の隆靖さんは「あんまりお菓子作りはしたくなかったやないかな」と令子さんは笑いつつも、
「こんな大きなお店と工場と家を建てたんだから、やっぱりすごい。お父さんもすごいし、主人のことも、私は尊敬します」という。
『モア ヤマダ』になって喫茶店もやるようになり、「今思い出してもぞっとする(笑)」ほど忙しかったが、「それが大きな転換になった」と令子さんはいう。
そんな2人が残してくれたお店だからこそ、令子さんはどんなに忙しくても、『モア ヤマダ』を閉めようと思ったことは一度もない。
「仕事は忙しいけど、やりがいしかないですよ」
隆靖さんが生み出した『モア ヤマダ』の看板商品の「モア」。その黄色いパッケージには、こんな詩が記されている。
エリーゼ おまえがその花だった。ねえ、愛するものよ、
いまのくちづけでおまえだということがわかった。
どんな花の唇にも、こんな優しい愛情はない。
どんな花の涙にも、こんな熱い情熱はない。
誰の詩なのか、なぜこの言葉を選んだのか。
「何度聞いても、主人ははぐらかすんです」と令子さんは笑う。
「モア」のパッケージに書かれた謎(?)のポエムは、お客様の間でも、ときおり話題になるとか。
隆靖さんは東京のアルバイト先からずっと手紙がくるような人だった。真面目で誠実な人だった。
ものを書くのが好きで、学生時代には、友人たちのラブレターを代筆していたという。
そして、なによりロマンチストだった。
ひょっとしたら、この詩は、隆靖さん自身が書いた詩だったのかもしれない。だから、「この”おまえがその花だった”って、もしかして私のこと??」と聞く令子さんに、気恥ずかしくて答えをはぐらかしたのかも。
そんな空想が膨らんでしまう。
「嫌やけど、ぜんぶやりがい」と冗談めかして笑う令子さん。これから先のことは、「子どもたちに任せます」
「主人は、私に、生きがいを残してくれました。1番いいものを残してくれました。いまも『モア』が売れ続けてる。死んでまで売れてるんですよ。すごいでしょ」と笑う令子さん。
70歳を過ぎた今も、厨房に立ち、ランチを作り、小麦粉にまみれながら菓子を焼く。朝8時から夜22時まで。365日休みもなく。
「主人が残してくれた『モア』を続けていきたいですね。みんなが喜んでくれるから。おいしいものを食べたら、みんな笑顔になるからね。笑顔でおれたら1番幸せやねって」