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沖縄県 うるま市

”素通りのまち”に灯る、やすらぎのネオンと70円の焼き菓子。 (1/2)

アラモード

聞き手 小林みちたか

写真 梅原渉

南北に長く伸びる沖縄本島のほぼ中間。最もくびれた部分に位置する、うるま市石川。

手つかずの自然が残り、トレッキングや洞窟体験などもできる魅力的なエリアだが、観光客の多くはスルーして、恩納村や名護市へ行ってしまうという。

地元の人が「素通りのまち」と自ら揶揄する石川——。観光客が足早に通り過ぎてしまうこの町に、地元に愛され続ける洋菓子店がある。

『アラモード』

創業当時から変わらぬ味というフレーズは、老舗菓子屋の常套句かもしれない。しかし、『アラモード』は、味だけでなく、値段までもが、まるで時が止まったようなのだ。

いまや洋菓子1個300円以下ではなかなか買えない。東京の人気店ならケーキ1個1000円以上も珍しくない。

そんな時代にあって、『アラモード』の洋菓子は、ほとんど100円台と半世紀前のような価格なのだ。

なかでも、1973年の創業から不動の1番人気を誇る、スティック状のチョコレートの焼き菓子「ブラウニー」は、なんと70円。

しかも、値上げしたのは、ここ数年の急激な物価高になってから。2022年頃までは、創業当時と同じ、50円だったという。

『アラモード』の創業菓子「ブラウニー」。不動の人気No.1は、コンビニコーヒーの半額で買える本格スイーツ。

アメリカのダイナーのような雰囲気の店内には、イートインスペースもあり、地元の人たちの憩いの場になっている。

「ほかのお店のお菓子も食べますけど、アラモードのお菓子が一番おいしいです。ホントは学校帰りの買い食いはダメなんですけど、みんなやってるんで」

「ブラウニー」を食べながら、そうイタズラっぽく笑って教えてくれたのは、店の隣の中学校に通う女子生徒たち。

そんな中学生たちをニコニコながめながら、86歳になる『アラモード』のオーナー佐次田(さしだ)秀美さんは言う。

「ブラウニーは、ぼくの人生、そのものですね」

『アラモード』のオーナー佐次田(さしだ)秀美さん。86歳になる今もお元気そのもの。チャーミングな笑顔が印象的だが、その裏には、想像を絶するような人生経験が隠されている。

空襲、収容所、そしてブラウニー

佐次田(さしだ)秀美さんは、戦前の1939年10月生まれ。ほどなく日本は第二次世界大戦に参戦する。幼少期だった終戦の前年の1944年頃には、自宅に日本兵が寝泊まりするようになったという。

1945年に入るや、アメリカ軍による空襲が始まる。日に日に状況は悪くなっていく。

春先になると、日の出ている間は防空壕に避難し、日が暮れてから自宅に戻る生活が続いた。

4月のある日。日が暮れても、攻撃が止まなかった。

翌朝、家へ戻ると部屋一面に空爆の弾が転がっていた。佐次田家は空襲を避けるため、石川岳の小川の流れる谷間へ避難する。

川の水は飲めたが、風呂に入る水はなく、髪や服には虫がわいた。
そこで3ヶ月ほど過ごし、石川へ戻ると、自宅があった場所はすでにアメリカ軍が学校を造っていた。近くの屋敷で、他の家族と暮らすことになった。

アメリカ軍は石川を収容所にし、石川の住民だけでなく中南部の人も集められた。

1つの部屋に10家族もの人が住んでいたため、佐次田家は9人で床のない場所にフクギの葉を敷いて過ごした。トイレは常に行列。衛生状態も悪く、病気も蔓延した。

そんな生活が2年間も続いた。

『アラモード』から石川海岸まではわずか200メートルほど。昔は店の前から米軍のビーチが広がり、「BBQをしている米軍の人たちに、『ギブミーチョコレート』なんて言ったりしましたよ」と佐次田さんは懐かしそうに笑う。

戦争を生き抜いた佐次田さんは、やがて野球に熱中する。チームでは4番ファースト。中心選手として活躍した。

学校を卒業後、アメリカ軍の嘉手納基地のベーカリーの仕事に就き、お菓子作りやパン作りを学び、職人としての腕を磨いた。

ほどなく、沖縄が日本に復帰するという話が盛り上がる。すると「基地で働いている日本人は全員クビになる」という噂が立った。

佐次田さんは、クビにされるなら独立した方がいいだろうと準備を始めた。基地で働きながら、早朝にドーナツを作り、商店街に卸を始める。

最初は、「売れるかしら?」と訝った商店の人も、次の日に行くと、「お兄さん、売れたから、また持ってきて」と注文が増えた。

自信を得た佐次田さんは、沖縄が日本に復帰した1972年に基地の仕事を辞め、翌1973年、鉄筋コンクリート2階建の『佐次田ベーカリー』を開業した。

「当時基地には350人くらい従業員がいましたけど、ぼくみたいに自営業でやっている人は誰もいません。ぼくの考えは当たってました」と佐次田さんは大きな笑顔。

そして、基地で学んだ「ブラウニー」を作ると、あっという間に人気商品に。

「これでやっていけるって、思いましたね」

店内には、子どもたちからの感謝状や『アラモード』のことを読んだ歌、取材された記事などがいくつも飾られている。長く地元石川で愛され続けられている証だ。

誰でも買えるお菓子を

佐次田さんは、基地ではじめて「ブラウニー」を食べた時のことをよく覚えている。

「チョコレートの甘さを強く感じて、とてもおいしくてね。驚きました。こんなにアメリカとは生活の差があるんだって思いました」

ブラウニーは、アメリカ発祥の濃厚なチョコレートの焼き菓子。1893年のシカゴ万博で、ケーキひと切れよりも小さく、手軽に食べられるように考案されたと言われる。

アメリカの家庭で親しまれる定番の焼き菓子で、「日本でいえば、おまんじゅうのような存在」とか。

銀紙に包まれた佐次田さんのブラウニーは、濃厚なチョコレートをちょっと硬めにコーティングし、油分は控えめに、しっかりと焼き上げる。

外はカリッとしていて、なかはしっとり柔らかい。香ばしいナッツが散りばめられていて、歯応えがいいアクセントになっている。

細長いスティック状で、片手で気軽に食べられる。小腹を満たすのに、ちょうどいい大きさ。

当時の沖縄は、甘いものがなかなか手に入らなかった。

みんなに食べてもらいたい。その思いから、誰でも買えるおいしいお菓子を作りたかった。

「それで50円にしました」

その思いはずっと変わらなかった。

日本が経済発展し、物価が上昇していく中でも、50年近くも「50円」という価格を変えることはなかった。

焼き上げた「ブラウニー」をカットする佐次田さん。創業以来50年以上、毎日、毎日、作り続けている。86歳になった今も、その日常は変わらない。

どうして、そんなことが可能なのか。

「ずっと夫婦2人でやっていましたから、あまり人件費を考えなくてもよかったからかもしれないですね」

50円硬貨1枚で買える洋菓子。地元の人たちは喜んだ。

特に、お小遣いで買える子供たちは、大喜びだった。

店では、佐次田さんの妻がシャーベットも作った。こちらも50円。

隣にある中学校の生徒たちが、昼休みになると店に押し寄せてきた。

「ブラウニーとシャーベットで100円玉1枚。あっという間に妻の手のひらは、100円硬貨でいっぱいになっていました」