佐賀県 佐賀市
創業330年の結晶。すっと口に溶けていく”真実の愛”のケーキ (1/2)
北島
聞き手 小林みちたか
写真 梅原渉
江戸時代、海外貿易の窓口だった長崎と北九州の小倉を結んでいた長崎街道は、砂糖文化を各地に広めたことから「シュガーロード」とも呼ばれ、カステラ、羊羹、鶏卵素麺などをはじめとする独自の食文化が花開いた。
日本遺産にも登録される長崎街道と、佐賀駅から南へ伸びる目抜通りが交わる一角に、小麦色の外観が目を引く老舗菓子屋がある。
江戸時代から歴史を刻んできた『北島』。
「丸芳露本舗(まるぼうろほんぽ)」と聞けば、あの丸いお菓子を思い出す人も多いだろう。
そんな佐賀県を代表する銘菓「丸ぼうろ」をはじめ、数々の名作を生み出してきた老舗に、マーガレットの花を模した、ひときわ可愛らしい焼き菓子がある。
「マーガレット・ダ・マンド」
1度につくれるのは、わずか12個だけ。
マーガレットの花言葉「真実の愛」にちなみ、贈り物としての注文が後をたたない。
クリーム状になるまで丹念にバターを混ぜ、アーモンド粉をたっぷり使った生地をじっくりと焼き上げる。
その製法は、『北島』の技術の結晶という。
マーガレットの花を模した「マーガレット・ダ・マンド」。出来たての焼き菓子からは、とびきりいい香りが漂う。
はじまりは数珠屋
『北島』の創業は、元禄9年(1696年)。農家の息子だった新五郎が22歳の時に、長崎街道沿いの一角に数珠屋を開いたのがはじまり。現在の本店のある白山より、少し西方だった。
その後、白山に移り、数珠から雑穀、荒物、呉服などと扱うものが増えていき、次第に貿易を手がけるようになっていく。
「もう一つ。鍋島藩(現在の佐賀県を支配した藩)が出島の警護を任されていたことから、当時の貴重なものに触れる機会が多く、砂糖もその1つだったようです」
そう教えてくれたのは、前会長である11代目・香月孝さんの次男・香月務さん。常務取締役として、12代目の実兄・香月道生さんとともに家業の『北島』を支えている。
やがて宝暦年間(1751〜63年)、4代目・新兵衛の時代に入ると、鍋島藩の御用商人にとりたてられる。
「今でいう総合商社のようなお仕事です。藩への貢献が認められ、”香月”と名乗ることを許されました」
江戸時代といえば、公に「苗字」を名乗っていたのは、武士や一部の富裕層くらい。庶民は名乗ることを許されていなかったから、さぞ、商売も繁盛していたのだろう。
しかし、その勢いも長くは続かなかった。幕藩体制が衰退していく時代の変遷の中で、『北島』は貿易商を辞める。そして何に活路を見出したのか。
「それが、お菓子でした」
『北島』の白山本店のある白山名店街は、江戸時代から商人の町として賑わった長崎街道に作られた。「シュガーロード」とも呼ばれる長崎街道には、現在も宿場町をはじめ、当時を偲ばせる景観や個性豊かな菓子文化が残っている。
固すぎた「丸ぼうろ」
8代目・八郎は、長男の9代目・安次郎とともにお菓子の製造に専念することに。
長崎貿易に携わった縁から、佐賀伊勢屋町の横尾家に「ボーロの製法」を習う。横尾家は南蛮菓子の製法を伝えてきた由緒ある御菓子司。
「ボーロ」とは、ポルトガルの港で南蛮船を見送る際に、家族が船員たちに渡したお菓子が由来といわれている。
「次いつ会えるかもわからない。その別れの時に贈ったものです。これほど思いとともにできあがったお菓子はないと思います」と香月さん。
『北島』の「丸ぼうろ」。「数種類をブレンドした小麦粉」「卵」「砂糖」という厳選した3つの素材と職人技で作る看板商品。
小麦粉と砂糖と塩水でこねて焼いただけの小さな固いお菓子が船員の保存食として、船底にあったことで日本に伝えられていく。
八郎・安次郎親子は、横尾家から習った通りに「ボーロ」をつくった。
生地をこねて焼いていると町中に甘い香りが漂ったという。
そのボーロを持って、「これからお菓子屋になります」と挨拶に行ったところ、
「北島のボーロはうまかばってん、八郎さんのごと固か」
と父・八郎の生真面目さにたとえて、評された。
常務取締役・香月務さん。東京でしばらく働いたのち、佐賀へ戻り、12代目の実兄とともに家業を支えている。
これではとても商売にならない。
小さな子供からお年寄りまで多くの人から、おいしいと親しんでもらえるようなお菓子にしなければならない。
9代目・安次郎は、工夫に工夫を重ねた。まず鶏卵を加え、その後、数種類の小麦粉をブレンドし、配合のバランスを見つけ出す。
「我々は、山の粉、海の粉という表現をします。海沿いの小麦粉と山間の小麦粉では微妙に違う。ブレンドすることで、お互いをきわ出させることができるんです」と香月さん。
その技術を、安次郎は明治の初めに早くも実践していたのだ。
さらに焼く前の生地にごま油を塗ることによって、その複雑な小麦粉のバランスを閉じ込めた。そうした改良の末、北島の「丸ぼうろ」が完成した。
その原型は、今もほとんど変わっていないという。
「柔らかで、さくりとした”口溶けの良い”おいしさ」
『北島』が今もこだわるお菓子の特徴が、この時、生まれた。
その後を継いだ10代目の善次は、品質本位の厳格な経営方針により、家業を当たりつつ、洋菓子では大谷琢亮(おおたに・たくすけ)氏、和菓子では京都の二楽庵の堀内嘉広氏先生といった優秀な技術者を招いて指導を仰ぎ、『北島」の「丸ぼうろ」以外の洋菓子から和菓子に至るまで幅広いお菓子の基礎を作り上げていった。
『北島』では今でも先生と呼ぶ大谷氏との出会いが、「マーガレット・ダ・マンド」誕生の扉を開くことになる。
『北島』がこだわりつづける「口溶けの良いおいしさ」は、「マーガレット・ダ・マンド」にも受け継がれている。
最後の弟子たちの挑戦
全国でも名高い洋菓子生地作りの名手と言われた大谷先生は、山口に生まれ10歳でお菓子の道に入る。
上野風月で基礎を学び、博多の明治屋で活躍したあと、戦後は材料が揃うまでの11年間、一切の菓子作りをしなかった。それほど、「商品のための材料選びを大切にされた方だった」という。
そんな大谷先生が、『北島』にやってきたのは、昭和35年10月18日のこと。
朝礼で「このお菓子をお召し上がりになる方が幸せであられますように」と願いながら仕事に励みたいとおっしゃった。
それは、「丸ぼうろ」の生みの親である9代目・安次郎が日頃から唱えていた言葉だった。
大谷先生は、朝礼の後、『北島』の「丸ぼうろ」の生地作りを見るなり、こういった。
「この丸芳露の洋菓子版をつくりましょう」
そして、生まれたのが、バターたっぷりのアーモンド粉(プードル)入りの生地で、あんずジャムをサンドした「花ぼうろ」。
「マーガレット・ダ・マンド」の生地作り。クリーム上になるまで、丹念に混ぜていく。作業は機械とはいえ、状態を見ながら調整するため、目が離せない。
「しっとりとした舌触り」の中に、「口溶けの良さ」を出すために、卵とバターとアーモンド粉の配合に8年の歳月をかけた。
「博多の港でいいバターがあると聞けば、駆けつけたりと、とくにバター探しには時間がかかったそうです。また、アーモンド粉を使うというのは、当時としては、相当ハイカラな発想だったはずです」と香月さんも舌を巻く。
1日100個売れればいいねと思って開発された「花ぼうろ」は、いまや1日数千個もつくられている。「丸ぼうろ」と並ぶ、もう一つの看板商品へと育っていった。
大谷先生は「花ぼうろ」が完成すると、『北島』を去り、洋菓子職人を引退。『北島』の職人たちは、大谷先生の最後の弟子となった。
そんな最後の弟子たちが挑んだのが、「マーガレット・ダ・マンド」だった。