千葉県 館山市
平和へのバトンを受け継ぐ、花の町のやさしいクッキー。 (1/2)
ロシアケーキ ピース製菓
聞き手 小林みちたか
写真 梅原渉
千葉県の房総半島の南端近く。東京から車で最短1時間半でたどり着く館山は、温暖な気候と豊かな自然に恵まれ、近年は移住者も増えているリゾートタウン。
海へむかってヤシの木が連なり、街並みはどこか南ヨーロッパ風。
そんな館山駅から徒歩約10分、昔ながらの製菓店がある。
『ピース製菓』
創業は、戦後すぐの昭和23年(1948年)。年季の入った店舗や店内は、ザ・昭和。
ショーウインドウには、サブレや大福やモナカとこちらも昔ながらの定番お菓子が並ぶ。
長年、つづいているお店は、例外なく、味がいい。ただ、『ピース製菓』のその味は、”並”ではない。
何せ、天皇皇后両陛下がご購入されたお菓子まであるのだ。ご献上ではなく、「お買い上げ」。
しかも、翌年も「お買い上げ」されたというから、ミシュランどころの話ではない。
そんな確かな味を誇る和洋菓子たちに紛れ、年間を通じてさまざまな花が咲き誇る、花の町・館山らしいお菓子がある。
昭和初期に日本で誕生したレトロなクッキー「ロシアケーキ」だ。
鮮やかなトッピングは、「まるで宝石のような」と紹介される『ピース製菓』の静かなロングセラー。
最近では昭和レトロのブームもあってか、「あ、ロシアケーキ!」と若い人たちも手を伸ばすとか。
南房総の名店『ピース製菓』の平坦ではない歩みを探ってみた。
「ロシアケーキ」を作り続ける『ピース製菓』のある館山は、小説「南総里見八犬伝」の舞台としても知られ、多くの文化財が残る歴史の町でもある。
店名に込めた「平和」への願い
「父は館山の隣の南房総市の和田町出身。鴨川のお菓子屋さんに住み込みで働きながら、尋常小学校を出ました」
そう教えてくれたのは、創業者の娘さんである角田章子さん。
章子さんのお父様は、大正元年(1912年)生まれ。丁稚奉公の後、東京の大きな菓子屋さんで働きながら、お菓子作りを学んでいった。
修行先の東京で結婚し、長女を授かる。しかし幸せな日常は続かなかった。
太平洋戦争が勃発する。
20歳以上の男性は、有無を言わせず、戦場へと駆り出されていった。
『ピース製菓』の創業者である父の思い出を語る娘の角田章子さん。「私が小学校の時も、ささっと焼豚を作ってくれたり、ラーメンを茹でてくれたりと何かにつけて器用でしたね」
「父も終戦の何年か前に兵隊に取られました。ただ、手先が器用だったからか、戦場には出ず、厨房で兵隊さんに食事を出すような係りだったようです」
それでも、戦地には変わりはない。
「中国へ向かう船に乗る予定が、体調不良で乗れなくて。その船は沈没したそうです」
そんな紙一重で生と死が別れていく世界で生きていた。
終戦を迎え、ようやく自宅に帰ってくると、一人娘は亡くなっていた。
最愛の娘の死に目に会えなかった——
失意の中、妻の故郷の館山でお菓子屋を創業したお父様は、
「2度と戦争の起こらない世の中に」
そんな願いを込めて、店名を『ピース製菓』とした。
以来、70年以上、手作りにこだわりながら、平和を願い、食べた人が笑顔になれるような和洋菓子を作り続けている。
創業当時の『ピース製菓』。戦後の東京は焼け野原で、多くの人が地元に帰ってやり直そうと奮闘した時代だった。「母は館山のお菓子屋の娘。その縁で、父と一緒になったようですね」と章子さんは語る。
忙しすぎて、開店できない
「創業の頃は、お団子をつくっていて、団子のピースなんて呼ばれていたそうです」
娘の章子さんは、三女。ちょうど創業の年に生まれた。前年にはお姉様も誕生した。
戦後日本が復興し、経済大国へと駆け上がっていく時代。それはそれは忙しかったそうだ。
「寝る時間も惜しんで菓子を作っていたみたいですね。車で配達中に居眠りして、田んぼに落っこちたこともあったそうですよ」と章子さんは笑う。
家には住み込みの職人さんや修行中の若者たちもいて、いつも食事の席は十数人。
「そのご飯も母が作って、夜中に洗濯して。もちろん店のこともやる。とにかく自分のことは二の次、三の次。今になって、すごさがわかります。とても母には敵いません」
スタッフもたくさん抱える『ピース製菓』は、とにかく繁盛した。
現在、『ピース製菓』の代表を務める章子さんの夫の角田吉夫さん。職人さんとともに、和菓子から洋菓子、イラストケーキまで幅広いお菓子を手作りしている。
お節句に桜餅や柏餅、そんな風習も大切にしていた時代だから、注文の数も桁違いだった。
「いきなり明日、柏餅100個なんて注文が入ったり。スタッフに明日は何時からですか? と聞かれて、今日の6時から、なんて答えたりしてたそうですね」
当時は、柏の葉っぱを前の日には全部用意して、洗って、煮て、灰汁をとって、何回も何回もゆすいで、拭いて、ようやく柏餅を包む。そんな下仕事があった。大量に注文が入れば、すぐにやり始めないと間に合わない。
結婚式が5件も6件も重なる。お赤飯を200個、300個と注文が入る。そうなれば、
「とてもお店を開けていられません。お店を1週間も閉めて、作業に没頭したそうです」
団子のピースの商品は瞬く間に増え、やがて洋菓子や焼き菓子も店先に並ぶようになった。
当時は、お菓子の職人組合のようなものがあり、紹介で東京から職人さんが1ヶ月くらいお店にやってきて、新たな菓子を置き土産にしていった。
宝石のようなレトロなクッキー「ロシアケーキ」も、そんな置き土産の1つだった。