山形県 山形市
創業220年の歴史を支える、満点の”十”に”一”の真心 (1/2)
チルミー 十一屋
聞き手 小林みちたか
写真 梅原渉
東京駅から山形新幹線つばさに揺られて約3時間。到着した山形駅直結の展望ロビーからは、雄大な蔵王連峰に向かって広がる街並みが見える。
街の中心は、山形駅から歩いて20分ほどの七日町。
その一角の七日町商店街にはアーケードがなく、電柱、電線も見当たらない。開放感のあるモダンな景観。
さらに進むと、大通りを1本の水路が横切っている。約400年前につくられた水路の1つである「御殿堰(ごてんぜき)」を復活させたという。
石積みの水路のまわりには、江戸時代から残る町屋を活かしたレトロな建物が並ぶ。
レトロとモダンが混在した七日町では、今日も多くの人たちが街歩きを楽しんでいる。
実は、山形県は、百年をこえる老舗企業が京都に次いで多い。
その中でも、ひときわ長い歴史を持つお菓子屋さんが、御殿堰に沿って店舗を構える『十一屋』だ。
明治末期の1943年に七日町の現在の場所に店舗を構えた頃の『十一屋』。当時は、店1軒のスペースが、間口4間半(8.19m)、奥行き9間(16.38m)と決められていた。その後、買い増し、店を拡大していった。
創業はなんと1804年。江戸時代末期から220年以上、山形でお菓子を作りつづけてきた。
2年前にできたばかりというおしゃれな平屋の店内に一歩入ると、鮮やかな黄色に可愛らしい鳥のイラストが描かれたレトロなパッケージが目に飛び込んできた。
焼き菓子の「チルミー」だ。
「幸せのお菓子」として、その人気は地元だけにとどまらず、東京銀座にある山形県のアンテナショップのオールジャンルのランキングでベストテンに入るほど。
発売は50年以上前。可愛らしいパッケージも、チーズと栗を練り込んだバターケーキをホイルで包んで焼き上げる製法も、発売以来、ずっと変わらない。
いまも一つ一つ、人の手で丁寧に包んでいる。そこには甘いバターの香りとともに、200年を超える歴史をもつ『十一屋』のお菓子作りへの思いが込められている。
絵本から飛び出してきたような可愛いデザイン。とりわけ「チルミー」の文字が、レトロで素敵だ。口当たりはしっとり柔らかく、ほどよい甘さがふわっと口いっぱいに広がる、まさに「幸せのお菓子」。
大火を乗り越え、街とともに歩む
その昔、お隣の宮城県からのびる笹谷街道沿いの街、今でいう山形大学の西側にあった地蔵町で『十一屋』は創業した。
「お饅頭などのお菓子に加えて、どうやら綿もあつかっていたという記録が残っています」と教えてくれたのは、創業者から数えて7代目となる松倉公一さん。
ただ、歴史が古すぎて、詳細は不明な部分も少なくないという。
やがて七日町に観工場(カンコウバ)ができた。観工場とは、1つの建物の中に商店が集まった、当時のショッピング街のような場所。
『十一屋』も、その観工場に出店した。
その後、七日町が山形の中心として栄えたこともあって、明治末期の1943年に七日町の現在の場所に店舗を構え、その店が現在の本店となった。
「十一屋」の7代目・松倉公一さん。小学校の頃には、将来はお菓子屋の主(あるじ)になると書いていたという。「あるじ、なんて言葉、知らないはずなのにね」と笑う。
しかし、翌年、大火により店は焼けてしまう。
残ったのは『十一屋』と書かれた看板だけ。
それでも直後に店を再建した。
逆境を乗り越えた先人の不屈の精神を忘れないため、焼け残った看板は、今も工場に掲げられている。
創業の頃は和菓子だけだったが、早くから洋菓子もはじめ、明治末期の頃に柏餅の横でワッフルを焼いている写真も残っている。
相当ハイカラなお店だっただろう。
昭和に入ると、1928年に山形市で開催された「全国産業博覧会」を機に、店を買い増し、1階に喫茶店、2階にお座敷スペースも作った。
「地元でいちばん早くソフトクリームを提供したんですよ」と松倉さんは胸をはる。
現在の平屋に改装した新しい店舗でも、お菓子さんの奥にレストラン「kitöne」を開店。
グランドピアノが常設され、定期的にコンサートを開いたり、お菓子作りのイベントを開催したりと、いまも地元の方たちの憩いの場となっている。
明治43年(1910年)に七日町の現在の地に構えたお店。翌年の大火でお店は焼失した。現在、山形市内の工場に掲げられているのは、この時の看板だ。
突然の別れ、託された老舗の未来
現在、代表取締役を務める松倉さんは昭和23年(1949年)生まれ。3歳上に姉が、2歳下に妹が1人ずついる。
ただ、松倉さんにお父様の記憶はあまりない。
5代目であるお父様は、松倉さんが生まれた2年後に急逝してしまったのだ。
妹が生まれて2ヶ月も経っていなかった。
悲しみに暮れる間もなく、残された松倉さんのお母様が6代目となった。
突然、老舗お菓子屋を継ぐことになったお母様。元々、商人の娘だったとはいえ、日用雑貨とお菓子では、勝手が違う。加えて幼い3人の子育てをしながらとなれば、老舗の経営はさぞ大変だっただろう。
当時の工場長と洋菓子を担当していたベテランの職人さんの2人のスタッフがお母様を支えたという。
「お二人がいなければ、もう十一屋はなかったでしょうね」と松倉さん。
やがて、『十一屋』は、7代目の松倉さんへと引き継がれていく。その時期もまた、予期せぬタイミングで訪れた。
十一屋にちなんで、平成11年11月11日に七日町から移転した新工場で、「チルミー」を作るスタッフの方々。広さが2倍以上になり、動線もスムーズに。
変わりゆく街の中で、訪れた転機
早逝した松倉さんのお父様は地元の商業高校を首席で卒業し、誰もが「優秀だった」と口を揃えるほどの人だったそうだ。
その優秀なDNAは、しっかりと息子の松倉さんにも引き継がれていた。子供の頃から読書感想文で地元のラジオ番組に出演したり、健康優良児として山形市で一等賞になったりと、立派に成長していく。
山形大附属小・中学校、県下随一の進学校の山形東高校、そして慶應義塾大学へと進学。
名門私立大とあって、同級生たちの多くは有名企業に就職していったが、
「子供の頃から店を継ぐことが頭に染み込んでいましたね」
と、松倉さんは、迷いなく、お菓子の世界へと進んだ。
刻んだ栗を練り込んだ生地をホイルに絞り出したら、折り紙のように「チルミー」の形に折りたたんでいく。ほとんどの工程は、昔から変わらず人の手でおこなう。
卒業後は、神戸の有名店「DONQ(ドンク)」で修行。今でこそ老舗ベーカリーとして有名だが、当時は高級なフランス菓子もたくさん作っていた。
「せめて2、3年は修行しようと思っていたんですが、ちょっと十一屋の状況が変わってきまして」
七日町の本店の隣に、大型スーパーがやってくるという話が飛び込んできたのだ。
「十一屋にテナントに入らないかと誘ってきたんです。いい話のような気もしましたが、母と相談して、断りました。テナントに入らなくても、私たちは自分でお菓子を作って売っています。将来を見据えたら、一緒にならない方がいいと思いました」
当時の日本は好景気。七日町も最盛期には大型のスーパーやデパートが10店舗もあったという。しかし、やがて山形県は全国ではじめてデパートのない県になってしまった。大型スーパーもいまや1店舗もない。
結果的に、松倉さんたちの判断は英断だった。
とはいえ、すぐ近くで大きな施設の大工事となれば、すでに築50年近く経っていた『十一屋』の店舗もガタガタと揺れてしまい、お菓子作りどころではない。
「それに綺麗なデパートの前に古い菓子屋じゃ格好もつかないですしね。それで建て替えることにしたんです」
松倉さんのお母様が当時は女性の社長が珍しかったこともあり、「社長は嫌だ」と常々言っていたこともあり、新店舗建設を機に、松倉さんは修行を切り上げて、『十一屋』に戻ることにした。
新しいお店は、「緑の三角屋根」が3つ並んだ、お菓子屋さんらしい可愛いらしいお店。レストランも工場もこれまで通り併設した。
昭和47年10月18日。大型スーパーより2週間ほど前倒しの新装開店だった。
この新装開店を記念して誕生したのが、店頭に並んでいた人気焼き菓子の「チルミー」だった。