【第 1 回】
宮城県 仙台市 フロリダ/ヌス・シュニンテン ガトーかんの
仙台の地で57年。創業から伝わる強めの甘さがクセになる。 (1/2)
聞き手 小林みちたか
写真 梅原渉

創業当時は電車から「ガトーかんの」が見えたという。現在も「仙台浅草」には昭和の景色が残りロケ地などにも使われている。
仙台駅から電車で6分。北仙台駅の南側にある100メートルほどの小さな横丁。
戦後の1958年に日用品の市場を開いたのがはじまりと言われ、当時は八百屋や魚屋が並ぶ商店街だった。その後、東京の浅草にあやかりたいと「仙台浅草」と名づけられた。
最盛期は人がすれ違うのも大変なほどの賑わいだったという。
しかし、時は流れ、日本中から横丁や商店街が姿を消していくように「仙台浅草」もまた、さまざまなお店ができては消え、現在は居酒屋やスナックが立ち並ぶ飲食店街になっている。
平日の昼間は人影もまばらで、ひっそりとしていた。
そんな変わり続ける横丁の景色の中で、ずっと変わらずにあるお店が一軒だけ。
洋菓子専門店『ガトーかんの』
創業1967年。当時は路面電車から見えたという「仙台浅草」の南の玄関口に建つ『ガトーかんの』は、今年で57年目を迎える。
看板商品は、外側をチョコでコーティングしたアーモンドのフロランタンクッキー「フロリダ」とヘーゼルナッツとヌガーをサンドした「ヌス・シュニテン」。

看板商品の「フロリダ」(左)と「ヌス・シュニンテン」。他店にはない独特の味わいは企業秘密の製法によるとか。
一度食べたらしばらく記憶にこびりつくような濃い目の甘みが個性的で、見た目もレシピも創業当時のままというから驚きだ。
全国菓子大博覧会で金賞を受賞した「マロンチョコラ」や全国洋菓子大品評会で最高技術賞を受賞した「ガトーセック」もまた創業当時から変わらぬ姿の看板商品。
ほかにも沖縄黒糖をつかった「欅樹〜けやき〜」やドライいちごとレモンチョコが好相性の「レモンケーキ〜青葉の恋人〜」などなど一風変わったネーミングと一癖あるお菓子たちが並ぶ。
流行りすたりの激しいお菓子の世界で、『ガトーかんの』はどうやって途切れることなくお菓子を作り続けてこられたのだろう。
50数年の歩みを紐解きながら、その秘密を探ってみた。

2代目店主の菅野孝洋さん。子供の頃から創業者である父のことを「社長」と呼んでいた。
これからは洋菓子の時代
創業者である菅野文男さんは、福島県原町市(現在の南相馬市)の生まれ。15歳の時に隣町の小さな和菓子屋さんへ丁稚奉公に出されたのが、この世界に入ったはじまりだ。
そこは職人の世界。お菓子作りはいっさい教えてもらえず、先輩から毎日頭を小突かれながら、4年間耐えに耐えて、技術を目で盗み続けたという。
「これからは洋菓子の時代だ」
19歳になった文男さんはそう一念発起して、仙台へと乗り出す。当時、有名店として仙台の中心部に本店を構えていた「信用堂洋菓子店」の門を叩く。それから11年、腕と技を磨き続け、見習いから職人、工場長まで勤め上げた。
そして1967年(昭和42年)5月、文男さん30歳の時。仙台浅草に『ガトーかんの』を開店した。
当時の日本は高度経済成長ど真ん中。東北最大都市の仙台もまたどんどん発展していた。さらにお菓子の素材がバタークリームから生クリームへと変わる時期で、生クリームを使ったモノならなんでも売れたという。
その流れに乗って『ガトーかんの』はすぐに朝から晩までお客様が途切れることのないほどの繁盛店となった。
「ゆくゆくは東北だけでなく、全国チェーンにもしたい」
文男さんは創業当時のインタビューでそう語っていたが、その言葉通り、数年後には2店舗、さらに3店舗、4店舗と『ガトーかんの』は大きくなっていった。

創業者の菅野文男さん。福島県の理容業を営む家に三人兄弟の次男坊として生まれ、生活は厳しかったという。
アイデアマンの父と職人気質の息子
「父はとにかく派手好きでアイデアマン。豪快な人でした」
そう語るのは創業者である先代・菅野文男さんの長男で、現在のオーナーシェフである菅野孝洋さん。
長男の菅野さんが生まれたのは『ガトーかんの』の創業の年。つまりお店と同い年。
薬をブランデーで飲み、お店の営業車に自分の顔写真を貼りつける先代の父に対して、長男の菅野さんは引っ込み思案だったという。
子供の頃から家業は自分が継ぐと思っていたが、父の文男さんから「お前みたいな弱っカスにはできないぞ」と言われては、シュンとしていたそうだ。ただ、いくらそう言われても他の職業を考えたことはなかった。
菅野さんは中学生になると家業の『ガトーかんの』を手伝いはじめた。最初はサンドイッチ作り。看板商品の「フロリダ」のチョコつけもやっていた。とはいえ、その頃はまだお金が欲しいからアルバイトをしているという感覚で、お菓子作りに面白さを感じるようなこともなかった。

アイデアマンだった創業者は、巨大なバレンタインチョコケーキを作って、重さ当てクイズを企画したりしたそうだ。
働き出してみると、菅野さんは自分が「一つのことを辛抱強く突き詰めるタイプ」という職人気質なところに気づく。
一方の父の文男さんは、その真逆。コロコロと意見が変わる。
「せっかく前の日に準備したのに、翌朝になったらすべて台無しにして別の作業をしはじめたり。とことんアイデア重視で思いついたら即実行。言うことやることがすぐ変わる。当時はどうしても理解できませんでした」
言いたいことを言えてしまえるのが親子。高校卒業後フルタイムで働き出した菅野さんは、社長である父の文男さんと何度も衝突したという。
さらに菅野さんは当時、オートバイに夢中になっていた。しかもレースに出て、国際A級ライセンスを取得するほど。当時、父の文男さんが一度だけレースをこっそり見にきたことがあったそうだが、そのあまりのスピードと迫力に
「あいつはもう死んだと思うしかない」と嘆いていたという。
さすがに菅野さんもプロの世界では圧倒的な実力差を痛感し、25歳で引退。父の文男さんに「バイクはやめる」と伝えるとホッとされたという。その頃には『ガトーかんの』も4店舗に増え、スタッフも50人以上抱えていた。長男がついに本気になってくれたと思ったことだろう。
そして、いよいよお菓子の世界に邁進といきたいところだが……
「いざお菓子を向き合うとわからないことだらけでした」
技術もない。知識もない。自分の実力のなさに愕然とした。これまではレースがあったが、もう逃げ道はない。
「外の世界で修行したい」
そう父の文男さんに相談すると快く送り出してくれた。

菅野さんは高校卒業後に本格的にバイクレースの世界へ。22歳で国際A級に昇格し、引退する25歳まで骨折や怪我は数えきれない。
地獄のような修行時代
修行先は『ガトーかんの』の出入り業者さんに紹介してもらった埼玉にある有名店。そこは業界では名の知れた厳しいシェフがいる店だったが、そんなことも知らずに菅野さんは飛び込んだ。
衝撃はすぐだった。
ある時、たまたまシェフの背後を歩いていたら、いきなり「俺のうしろを歩くな!」と蹴りが飛んできた。
そのお店では、シェフの背後は立ち入り禁止という暗黙のルールがあったのだ。それも「人の気配が嫌」という理不尽な理由だけ。
それだけではない。少しでも仕事のスピードを緩めたり、ちょっと気を抜いただけで、ものすごく重いフランス鉄板が飛んできた。当たりどころによっては大惨事になりかねない。
かといって避ければ避けたで、今度は蹴りが飛んでくる。シェフの攻撃を受け止めるまで、追撃は終わらない。
だから、痛くない場所で攻撃を受けて、痛いふりする。そんな生き延び方を同僚や先輩から少しずつ学んでいった。
こんなクレイジーなシェフのいる店なんて、すぐにでも辞めてしまいたいところだが、菅野さんは辞めなかった。他の店に行こうとも思わなかった。
そのシェフの作るお菓子が、衝撃的な美味しさだったからだ。

厳しかった修行時代に学んだストイックなケーキ作りの精神は、いまも生かされている。
「あの味を知ってしまうと自分もこんなお菓子を作りたい。そう思うと辞められませんでした」
とはいえ、シェフは作り方を丁寧に教えるような人ではない。見て覚えるといっても、目の前の自分の仕事から目を離せば、蹴りや鉄板が飛んでくる。攻撃に怯えながら、隙を見つけては少しずつ盗んでいった。
菅野さんのこの修行時代は、まるで父の文男さんが和菓子屋で頭を小突かれながらお菓子作りを身につけた丁稚奉公の頃とそっくりだ。お互いの性格は真逆といいつつ、同じような厳しい修行時代を送っていたわけだ。
そんな菅野さんは修行1年目が終わる頃、恭子さんと結婚する。しかしそれで仕事が楽になるわけではなかった。
仙台から埼玉にやってきた妻の恭子さんは、当時を思い出し、笑顔を崩しながらこう嘆く。
「朝4時に出勤して、帰ってくるのは夜の11時過ぎ。ほとんど家にいないから、もう一人暮らしみたいなものでしたよ」
そんな2人に、やがてお子さんが生まれた。
「とても子供を持てるような環境じゃない」
菅野さんは仙台に帰ることにした。ようやく抜け出せるという安堵感もどこかにあった。

トレードマークの少女。苦労した幼い頃に「辛抱し、我慢し、堪える」ことを学んだ創業者の思いも込められているのかもしれない。
自分の力で勝負したい
修行先から帰郷した菅野さんは『ガトーかんの』には戻らず、仙台市内の大型スーパーマーケットのなかにあるケーキ屋に勤めた。ここならお店唯一のシェフとしてお菓子作りができる。修行時代に学んだことを試せる。それはまだまだ父の文男さんが健在の『ガトーかんの』では叶わないことだった。
抑圧された修行時代から解放された菅野さんは、夢中でお菓子を作り続けた。耐えた時間は確実に菅野さんの血肉になっていた。
菅野さんの作るお菓子は評判となり、常連のお客様もたくさんついた。自分で考えて、自分でお菓子を作るはじめての経験。
「美味しい。その言葉が一番うれしかったですね。これが私のやるべき仕事なんだとはじめて感じました」
それから5年。順調にキャリアを積み上げていく菅野さんのお店に、ある日、父の文男さんがフラりとやってきた。
「ガトーかんのを継げ」
父の文男さんは、当然、菅野さんの評判も聞いていた。『ガトーかんの』は4店舗から3店舗へと縮小し、勢いにも翳りが出てきていた頃。人手も足りない状況だった。そんな苦境は理解しつつも、菅野さんは二つ返事では応じなかった。
せっかく自分のお菓子作りにやりがいを見出していたのに、また父の元で、父の指示通りにお菓子を作ることに気乗りがしなかったのだ。そんな思いを正直にぶつけると、
「店を任せる」
あの父がそこまで言うならよっぽどだろうと思った菅野さんは、それならと承諾し、『ガトーかんの』に戻った。
しかし店が縮小したとはいえ、まだまだ父の文男さんは元気一杯で、何も変わっていなかった。それどころか、美味しいと評判を得ていた菅野さんのお菓子作りを認めなかった。
「私のやり方は工程が多く、時間がかかってしまっていたんです。もっと短時間に大量に作れないと商売にならないと否定されました」
菅野さんからしたら、父の文男さんのやり方は商売への意識が強すぎて、菓子職人というより経営者に映っていたという。
「あの頃の私はまだまだ職人気質どっぷり。とことん味にこだわる修行時代のあのシェフの影響も強かったと思います」
1年後。「これじゃ話が違う」と菅野さんは『ガトーかんの』を辞めた。
そして独立。30歳半ば。子供も2人。リスクも覚悟の上だ。
とにかく自分の力で勝負したかった。
そんな菅野さんの姿に、30歳で独立した自身の姿がダブったのかもしれない。喧嘩別れのようになってしまった息子の決断を父の文男さんは「やってみろ」と応援してくれたという。