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東京都 足立区

東京で70年。商店街が消えても、生き残る洋菓子の名店 (1/2)

焼き菓子 コシジ洋菓子店

聞き手 小林みちたか

写真 梅原渉

東京都足立区東綾瀬。東京メトロとJRが乗り入れる綾瀬駅の目の前には、巨大なタワーマンションが建設中。街を歩けば、公園が点在し、真新しい集合住宅が建ち並ぶ。

人口減少にあえぐ日本にあって、駅前から広がる東綾瀬の街は、ここ数年ファミリー層が流入し、人口が増えているという。

そんな下町の住宅街に、1軒の洋菓子店が佇んでいる。

かろうじて「東綾瀬商店街」という袖看板の表記に当時の名残りを見ることができるが、通りはシャッター街どころか、民家ばかりでシャッターすらほとんどない。

「そこの戸建てが並んでいるところに、スーパーボールの製造工場があったんですよね」

そう教えてくれたのは、『コシジ洋菓子店』の2代目店主・角田(かくた)純さん。

2代目店主の角田(かくた)純さん。弟も都内で洋菓子店を開いている。「息子2人が同じ仕事を継いで、多分父も嬉しかったんじゃないかな」

「昔は、肉屋に魚屋にと一通りなんでも揃う商店街でした。夕方ちょっと外に出れば、夕飯の買い物が済んでしまいましたから」

東京の下町の景色は目まぐるしい。

日本の経済成長に合わせて発展した街は、バブル景気が弾けると一気にしぼみ、店も人も消えていった。商店街も消滅した。

しかし最近になって、古かった団地はキレイに建て替わり、子供たちの元気な声がどこからか響いてくる。外国人の住民も増えているという。

「だからベトナム語でハッピーバースデーも書けますよ。パソコンには中国語や韓国語はもちろんタイ語やベトナム語、ミャンマーのビルマ語だって入っていますから」と角田さんは笑う。

東京の移り変わりをじっと見続けてきた『コシジ洋菓子店』は、今年創業70年。

平日の昼下がり、綾瀬駅から徒歩15分のこの洋菓子店には、次々とお客様が訪れていた。

『コシジ洋菓子店』の商品ラインナップは、焼き菓子から生菓子まで幅広い。クリスマスやバレンタインデーといった季節にあわせた限定菓子も多く、そのたびに店内の装飾も変わるので、いつ訪れても楽しい。

アメ横初?の手作りお菓子の家

創業時の店名は、『越路洋菓子店』と漢字表記だった。越路とは、越の国へと通じる路のことで、今も新潟県中部の町にその名が残っている。

「父は新潟出身で、故郷への想いが強かったんだと思います」と長男の2代目店主・角田さん。

その父は上京してパン屋に勤めたあと、六本木の名店「クローバー」で洋菓子職人としてのキャリアをスタートさせた。

そして1955年に東京の台東区入谷で独立する。

当時あの辺りでは和菓子屋さんはあったがケーキ屋はあまりなかったようで、店舗を構えず、近くの浅草や上野のアメ横に洋菓子を卸していた。

主に作っていたのは、バタークリームのケーキ。あとは焼き菓子のロシアンケーキとか。

とりわけクリスマスケーキは重宝された。

「ケーキを飾る家の形のウエハースを手作りしていたんです。これが当時としては、かなり珍しかったようで。リヤカーにケーキを乗せて、アメ横にいくと、よこせ、よこせと取り合いになるくらい人気があったらしいんですよ」

手作りの家はうちが一番最初にはじめたんだ、と自慢する父の言葉を角田さんはよく覚えているそうだ。

東綾瀬の住宅街にある『コシジ洋菓子店』。裏には小学校があり、登下校の時間になると、お店の前の通りをたくさんの子供たちが行き交う。

今の東綾瀬に店を構えたのは、1967年、角田さんが10歳の頃だった。

「この辺りは田んぼばかりでしたね」というから隔世の感がある。

その少し前にお店の近くに大きな団地が建った。当時の団地は憧れの住まい。余裕のある人たちが住んでいたこともあり、よく買いに来ていたそうだ。

角田さんは中学生になると、お店を手伝うようになる。

「洋菓子は形も作り方もぜんぶ違って複雑。それが面白かったですね」

この頃には、すでに将来は『コシジ洋菓子店』を継ぐつもりだったという。

創業者の父は、新潟県の燕市出身。上京前は洋食器の行商をやっていたという。「上京して勤めたパン屋は朝が早すぎて嫌で(笑)。ケーキ屋なら朝も多少は遅いだろうって転職したそうです」

1ヶ月で10キロやせた修行時代

角田さんは上智大学出身。「菓子屋はいなかったですね」と笑うように、超難関大卒となれば、周りの就職先は一流企業ばかりだったろう。

そんな同級生たちを尻目に、角田さんは卒業前の3月の頭から吉祥寺の洋菓子店で修行を始めた。卒業式は「有給とって行きましたから」というから、職人の世界へ飛び込む覚悟も半端ではない。

そして一足早く飛び込んだプロの世界は、想像以上の荒波だった。

角田さんが修行した洋菓子店の店主は、ドイツ人のウォルフガング・ポール(パウル)・ゴッツェさん。

1970年に洋菓子の技術指導で来日し、日本の洋菓子界の技術向上に計り知れない功績を残したといわれるスーパーレジェンドだ。

「もう圧がすごくて。何から何まで厳しかったです」と笑う。

洗い物をしていても、「水がもったいないでしょ! まとめて洗いなさい」と怒られる。

パイを焦がしてしまい、そっと隠していても、「この匂い、なんですか」とすぐにバレてしまい「ちゃんと作りなさい!」と怒られる。

なんと1ヶ月で10キロも痩せたというから、どれほど凄まじいプレッシャーなのか。

修行時代は、冷房の効いた小部屋で1日中ひたすらパイを作ることもあったという。「もう霜焼けになるくらいでした」とキツい思い出も多い。

そもそもゴッツェさんは、ドイツ人の菓子職人。中学を出たら高度な研修を受けてプロになるマイスター制度の整った国。だから、なんで大学を出た人間がケーキ屋になるだと角田さんのことを理解できなかったそうだ。

ただ、厳しいのは求めているレベルが高いからで、指導は的確だった。なんでも丁寧に教えてくれた。レシピも配合も手書きで書いてくれたという。

「理不尽さはなく、どれも理にかなっていました。洗い物にしても、要は無駄を省き、効率を考えろということ。経営者としては当たり前ですし。遅くまで残業していれば、早く帰りなさいという人でした」

2年という修行期間で、一通りの菓子作りを学んだ角田さんは、結婚を機に、実家の『コシジ洋菓子店』を継ぐことに。

体や頭には、日本洋菓子界のレジェンド・ゴッツェさんの教えがしっかり染み込んでいた。

ケーキが中心だった創業当時から作っている「タヌキケーキ」は、その昔は日本中の洋菓子店にあったそうだ。今では減ってしまい、絶滅危惧種と言われているとか。ネット上などでは、「タヌキに出会えるお店」としても有名だ。

商店街から店が消えていく

角田さんがお店を継いだ1980年代の日本は、バブルへと向かう好景気。お店の周りにあった田んぼはマンションに変わり、人もどんどん増えていた。

『コシジ洋菓子店』も綾瀬駅の東口と西口に支店を出すほど繁盛していたが、「ケーキが中心で、焼き菓子はマドレーヌくらい。あまり手が回っていませんでしたね」という。

やがて1990年代に入り、バブルが弾けると、日本経済は一気に冷え込んでいった。

『コシジ洋菓子店』のある東綾瀬商店街からも、一つ、また一つと、お店が消えていった。もちろん、その波は角田さんにも迫っていた。

「何かを変えなければ」

2代目となった角田さんは、まずコストの削減に目をつけた。

毎日使う包装紙だ。
これまでは、赤くベタ塗りした下地に、店名が白抜きされたデザイン。

「赤ベタは印刷代がものすごく高いんですよね。あと仏事に使えない。だから白バージョンも作っていて、コストがかかっていました」

それを一気にベタ塗り不要の白地の紙に変更した。ただ、さすがにそれだけでは殺風景すぎる。

左)以前の包装紙。レトロなロゴのレタリングが素敵だ 右)現在の包装紙。「クリスマスケーキに乗せるお家のイメージで」とオーダーしたイラストは、お店の雰囲気にもよく合っている。

その時、角田さんの頭によぎったのが、父の入谷時代。クリスマスケーキにウエハースの家を手作りして大人気だったという武勇伝だった。

「それでワンポイントに、家のイラストがいいかなと。妻の友人のイラストレーターさんにお願いして、可愛い家のイラストを描いてもらいました」

ただ、お店の看板ともいえる包装紙をガラリと変更し、心機一転といきたいところだったが、2000年代に入っても日本経済は長い不況のまま。衰退する街のお客様だけではジリ貧だった。

そんな状況を打開するため、角田さんはネット販売に目をつける。ネットなら、販路は一気に全国だ。とはいえ、日持ちする焼き菓子をネット販売したところで、目新しさはない。

追い込まれた角田さんは、大ヒット商品を開発する。いまや芸能界からも多数の注文が入る「写真ケーキ」だ。