【第 9 回】

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新潟県 新潟市北区 ガトー・オ・ノア マロン洋菓子店

「普遍的なおいしさ」を探しつづける職人の最後のケーキ (1/2)

聞き手 小林みちたか

写真 梅原渉

新潟駅からローカル線に揺られること15分。昼過ぎに降り立った早通駅には、雪が降り積もっていた。

駅前から人影のないの商店街の奥に、鮮やかな青い屋根が見えた。

『マロン洋菓子店』

東京を中心に関東にはマロンを名乗る洋菓子店がいくつかある。

この新潟市北区にある『マロン洋菓子店』もまた、東京の「マロン」で修行し、名乗ることを許された由緒ある洋菓子店の1つなのだ。

『マロン洋菓子店』は、早通駅南口から徒歩3分。ロゴや女性のイラストも修行先から受け継いだ。

「土地勘もなかったここに店を出して43年。誰の援助も一切なかったからね」

そう胸をはるのは、店主の加藤正由(マサナオ)さん。

中学の卒業式の翌日に修行に出たという菓子職人の人生は、さぞ波乱万丈だろうと思いきや、語り口は「どうってことない」とばかりにどこか飄々。

看板商品の1つ、創業菓子の「ガトー・オ・ノア」への思い入れをたずねても、「特にないね。ナカメ(東京都中目黒)の頃からつくってただけから」と肩透かしをくらってしまう。

ただ、クルミたっぷりのフロランタンケーキ「ガトー・オ・ノア」を筆頭に、直売所からの注文はコロナ禍を境に激増。

「ま、悪ことばかりでもないね」と言えるのも、確かな味があるからこそ。

そんなどこかつかみどころの加藤さんだが、これだけはキッパリと言い切る。

「店は2032年まで。お客様に何を言われても、50年でやめるって決めてるんですよ」

マロンの創業菓子の「ガトー・オ・ノア」。200年前からヨーロッパで愛されている定番のケーキだ。

世の中には、こんなにおいしいものがあったのか

今年72歳になる加藤さんは、新潟市の南にある水原で5人兄弟の末っ子として生まれた。

両親の仕事はお菓子とは無関係。ただお菓子には強烈な思い出がある。

「たまにお袋が買ってきてくれる大判焼きがうれしくてね。で、それがある時シュークリームになって。これが本当においしくて。世の中に、こんなにうまいものがあるのかって衝撃だったんだよね」

そして地元の中学を卒業して、川崎の菓子屋へと修行に出た。

シュークリームに衝撃を受けて菓子職人を目指した、といったストーリーを期待したいが、そうではない。

「ただ同じ水原出身の人が川崎で店をやってて、人手が足りないからってだけ」

そもそも和菓子屋もなければ、ケーキ屋もない田舎町。田んぼの真ん中で生まれ育った加藤さんは、お菓子が何かもよくわからない少年だったという。

そんな若者が、数年後には六本木や青山の街をケーキを持って駆け回ることになる。

マロンの店主・加藤正由(マサナオ)さん。甘いものと同じくらい車が好き。70歳をすぎた今も大型のSUV車で走り回っているそうだ。

最高の出会い

川崎の菓子屋では5年半勤めた。店は忙しかったが、主な仕事は洗い物。ケーキ作りよりも下働きばかりだった。

「お店を持たせてやるって約束だったけど、先輩たちを見ていても、とてもそんな雰囲気はなくてね」

ここで学ぶことはもうないと見切った加藤さんは、車の免許と製菓衛生師の資格を取って、店をやめた。21歳の頃。

「何しても食えるだろうって時代だったし、怖さはなかったね」

次に勤めたのが、原宿の竹下通りの入口に本店を構える『マロン洋菓子店』だった。

前の菓子屋の工場長がマロンの社長と知り合いだった縁から紹介してもらい、支店の中目黒店の工場に入った。

この社長との出会いが、人生の転機になった。

「商売のことを覚えたいなら教えてやる。腕を磨きたかったら他にもいい店がいっぱいあるから紹介してやる。どっちがいいって聞かれてね」

腕のいい菓子屋が金を稼げるとは限らない。商売は別の深みがある。それを教えてやると言われたのだ。

加藤さんに自分の店を持ちたいという強い思いがあったわけではないが、社長の元での仕事は確かに面白かった。

「友達は1人か2人いればいい」

そんな社長の言葉が印象に残っているという。

マロンにはロゴと店名の入った最新式の窯があるが、「ガトー・オ・ノア」を焼くのは創業から40年以上、今も変わらずこの古い窯。「慣れているのが1番」という。

「人付き合いなんてそこそこでいいんだと。それよりも自分の店、仕事が何よりも大切。それぐらいの覚悟がないと仕事がいい加減になっちゃうから」

いい仕事をすれば、お客様も来る。そうすれば、材料屋さんも集まってくる。お金も同じ。そういうところに人は集まる。だから仕事をしてなんぼだと叩き込まれた。

その言葉通り『マロン洋菓子店』のケーキは飛ぶように売れていた。

大みそかまで働いて、ようやく明日の元旦は休みだとほっとして電車に乗る。すると、すれ違う反対側の電車には、これから初詣に行く人たちが乗っていた。

こちらはようやく家に帰れるのに、すごい違いだなと思ったが嫌な気はしなかった。

「いい思い出ですよ。1年やりきった、よく働いたなって」

だから、せっかく新潟から東京に出てきても遊びに行く暇もない。繁華街に行くのは決まって配達だった。

「六本木のオカマバーにケーキを届けたこともありましたね。オーナーが店で食べて、おいしかったから届けてくれって。カツラだらけの楽屋にびっくりしちゃいましたよ」

「ガトー・オ・ノア」の袋詰めは奥様の仕事。実は加藤さんと同じ新潟出身。「田舎が嫌で東京に出たから、本当は戻ってきたくなかったんですよ」と笑う。

東京の冬は寒かった

マロンの中目黒店では、ホールのスタッフとして働いていた後の妻とも出会った。ほどなくして結婚すると、社長から声をかけられた。

世田谷の空き店舗で店をやってみないか。

「自分から手を上げたわけじゃないけど、やる気があるように見えたのかな。ダメならまた中目黒に戻ればいいやって、あんまり怖くもなかったね」

社長の見込んだ通り、加藤さんには経営のセンスがあったのだろう。店主を任された世田谷の店は順調だった。しかしその日々は2年弱で終わってしまう。

「別につらかったわけじゃなくて、むしろ楽しかったですよ。まだ20代半ばで、生きているだけで楽しいような年頃だったしね」

社長の教えを実践するように、店主としての商売に面白さも感じていた。だから自ら店をやめた理由は仕事ではなかった。

生まれて間もない娘さんだった。

「娘が歩行器で歩いていたら転んじゃってね。その時に、足のしもやけが見えたんですよ。もう真っ赤で。あー東京の冬は寒いなって、涙がでてきちゃったんですよね」

まだ東京も子育ての環境は今のように整っていなかった。店舗の上階が住居とはいえ忙しい客商売。幼い娘にさみしい思いをさせていると感じたのだろう。

バブルに浮かれる東京ではなく、自分の生まれ育った新潟で育てたい。
そう思った加藤さんは、「田舎でやろうと、東京でやろうと、商いは商いだ」と故郷の新潟に帰ることにした。